まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

兼六園

庭園情報


撮影:2018.11.16

言わずと知れた、日本三名園の一つ

 世に「日本三名園」と呼ばれる庭園があります。水戸の「偕楽園」、岡山の「後楽園」、そして金沢の「兼六園」です。金沢の代表的な観光地であり、北陸新幹線が金沢まで開業した昨今はますます訪問者が増えています。徽軫灯籠がある霞ヶ池が非常に有名ですが、兼六園にはその他にも様々な顔があります。

六勝を兼ね備えた庭園

 兼六園の名称の由来は、「宏大」「幽邃」「人力」「蒼古」「水泉」「眺望」の六勝を兼ね備えた庭園であることから名付けられました。

瓢池

 瓢池はかつて「蓮池庭」という名で呼ばれました。兼六園の中でも最も古い庭園で、兼六園の六勝の一つ「幽邃」の部分に当たります。霞ヶ池と比較すると小ぶりですが、鬱蒼とした緑に囲まれた庭園であり、落ち着いた気持ちで鑑賞することができます。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

夕顔亭

 瓢池にある建築が夕顔亭です。安永三年(1774)、加賀前田家第11代当主・前田治脩卿によって建築されました。蓮池庭時代の四亭の内、現地で現存する唯一の建築です。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

翠滝

 別名、紅葉滝、松蔭滝とも言われる滝です。夕顔亭と同じ安永三年(1774)に完成しました。五月に前田治脩卿が見聞した時に修正を指示、翌月までに手直しの上完成させたと記録が残っている滝です。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

海石塔

 瓢池の中島には海石塔と呼ばれる石塔が立っています。通常、塔の笠は奇数であるはずですが、この石塔は6層となっています。そのためか、金沢城・玉泉院丸庭園の石塔の一部を移したものではないかとも言われています。いずれにしても、瓢池の雰囲気とよく調和しています。

撮影:2016.12.24

撮影:2018.11.16

噴水

 兼六園には日本最古とも言われる噴水があります。ポンプなどの動力を用いておらず、「サイフォンの原理」を応用して実現しています。(なお、日本最古の噴水は水戸の偕楽園にあるとの説もあります。)

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

霞ヶ池

 だれもが思い浮かべる兼六園のイメージは霞ヶ池の部分になります。兼六園の六勝の中の「宏大」を代表する部分であり、徽軫灯籠に蓬莱島、内橋亭と言った有名な光景が見られます。兼六園に来たら、必ず見ておきたい光景です。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2016.12.24

撮影:2016.12.24

撮影:2018.11.16

撮影:2016.12.24

撮影:2018.11.16

徽軫灯籠

 兼六園のみならず、金沢のシンボルにもなっている徽軫灯籠(ことじとうろう)。形が琴柱に似ているため、この名称がつけられています。その名称の通り、文久三年(1863)に描かれたとされる「兼六園絵巻」には、徽軫灯籠の両脚の長さが同じになっています。しかし、明治の一般公開後に破壊され片脚が短くなってしまいました。しかし、偶然できたアンバランスな形状が後に「破調の美」と称され、予期せぬ成功として金沢を代表する景観となるのです。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

蓬莱島

 霞ヶ池に浮かぶ島、それが蓬莱島です。日本庭園によく見られる神仙思想の神仙島になぞらえており、まさに亀の形をしています。なお、平成30年(2018)6月に亀の頭に該当する石が倒れ、同8月に復旧されました。そのため、以前とは微妙に傾きが異なっています。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2016.12.24

唐崎松

 蓬莱島と向かい合わせのように対岸にあるのが唐崎松です。蓬莱島のかめと対になるよう、唐崎松は鶴に見立てられています。確かに、首を長く伸ばして翼を広げているように見えます。

撮影:2016.12.24

撮影:2016.12.24

内橋亭

 内橋亭は霞ヶ池に突き出る形で建てられている水亭です。元は蓮池庭時代の四亭の一つで、明治7年(1874)頃に移築されたものです。意外と新しいですが、今では兼六園に欠かせない景観です。

撮影:2016.12.24

栄螺山

 霞ヶ池を掘った際に発生した土を元に築かれたのが栄螺山です。登り路が螺旋状になっていることから、栄螺山と名付けられたとのこと。現在は樹木が成長し、一部視界が妨げられていますが、ここから眺める霞ヶ池は注目すべき景観の一つです。

撮影:2018.11.16

親不知

 内橋亭の横、栄螺山の山腹に位置するのが親不知です。北陸道の難所として知られる親不知海岸を模して作られた箇所です。霞ヶ池の中でも栄螺山と共に石の存在が目立つ所でもあります。ここから霞ヶ池を眺めると、蓬莱島(亀)と唐崎松(鶴)が向かい合っているように見えます。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

曲水

 兼六園には注目すべき景観がいくつもありますが、この曲水もその一つです。霞ヶ池に水を供給している水路ですが、そこには様々な演出が施されています。

撮影:2018.11.16

撮影:2016.12.24

眺望台

 徽軫灯籠を横に、曲水沿いを進むと眺望台があります。六勝のうちの一つ、「眺望」を代表する景観です。ここに来ると、兼六園は高台に築かれた庭園であることが実感できます。

撮影:2016.12.24

雁行橋

 11羽の雁が列を作って空を飛んでいる様を模して作られたのが、雁行橋です。使われている石が亀の甲の形であることから、亀甲橋とも言われています。

撮影:2016.12.24

七福神

 七福神山は築山に七福神に見立てた石を配置した築山です。元々は竹沢御殿の書院庭として作庭されています。

撮影:2016.12.24

根上松

 兼六園の名物の一つとなる、根上松です。加賀前田家第13代当主・前田斉泰卿の時代に、土を盛り上げたうえで若松を植樹し、成長後に土を取り除き、根を露出させたといわれます。加賀前田家の造園技術が垣間見える作品です。

撮影:2016.12.24

鶺鴒島

 日本神話の国産みから名付けられた鶺鴒島です。島の中に鳥居があり、神聖な雰囲気が漂います。施主の子孫繁栄を願いが伝わってきそうです。

撮影:2016.12.24

撮影:2016.12.24

山崎山

 兼六園の南端の築山が山崎山です。ここは兼六園の他の場所と比べても様相が全く違います。兼六園の中でも古風な石組がみられることから、蓮池庭(現・瓢池)よりも歴史があるのではないかとの説もありますが、未だ不明な点が多くあります。

撮影:2016.12.24

撮影:2016.12.24

撮影:2016.12.24

時雨亭

 かつて蓮池庭時代の四亭の一つであった時雨亭は噴水の前にありましたが、残念ながら明治の初期に撤去されてしまいました。幸いなことに、間取り図や姿図が残されていたため、平成12年(2000年)に場所を移して再建されました。この付近は元々は武家屋敷や武学校、御殿、馬場などといった用途で使われており、庭園ではありませんでした。「平成の大作庭」と呼ばれる時雨亭とその付近の庭の整備後、兼六園の新たな魅力ある景観が出来上がりました。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

意外とはっきりしない兼六園の始まり

 現在では金沢を代表する観光地になった兼六園ですが、その始まりについては明確な記録が無く、様々な説が提示されてきました。

  • 慶長年間(1596-1614 明の儒学者、王伯子の屋敷が建てられたことに由来。主に小川孜政氏が主張。)
  • 寛永七年(1630 小堀遠州の配下である賢庭の金沢訪問に由来。主に重森三玲氏が主張。)
  • 寛文年間(1661-1672 装剣金工、後藤程乗の屋敷が建てられたことに由来。主に森田平次氏が主張)
  • 延宝四年(1676 加賀前田家第5代当主・前田綱紀卿が自身の別荘を建てたことに由来。主に田治六郎氏や下郷稔氏が主張。)

 兼六園側は延宝四年(1676)に作庭が開始されたと紹介していることから、現在は延宝四年説が有力とされているようです。延宝四年説については下郷稔氏がこのように述べています。

 私は田治の延宝説を支持している。重森の寛永説は別であるが、その他の説が作庭の始期だとする年代は、いずれも明の儒学者・王伯子、2代将軍・秀忠の二女・珠姫が輿入れした際に付いてきた江戸の重臣、さらには京都の名金工・後藤程乗など外来の客の住居に当てられた敷地となっていた時代であった。それらの住居の周辺に小さな規模の庭が存在したことは考えられるが、それが藩主の楽しむ庭としての内容を持っていたと認めるわけにはいかない。ましてや、それらの庭が後の大規模な庭園の発祥と位置付けることが出来ないと言うのが、私の結論である。
下郷稔(2000.12)「日本の庭と兼六園」『金沢大学大学教育開放センター紀要 第20号』p9

 万治二年(1659)、王伯子の屋敷地であった場所には作事所が移転しています。作事所とは下記のような役所になります。

 御作事所の仕事は土木関係の中で、建物の建築や営繕を任とする役所で、金沢城内の営繕にあたる内作事奉公のほか、小作事奉公、大工頭、壁塗り、畳刺しなどから構成されていた。
石川県金沢城兼六園管理事務所(2013.09)『兼六園

 つまり王伯子の屋敷と蓮池庭との間には作事所が存在しているため、断絶があるということです。しかし、後藤程乗の屋敷はどうでしょうか。作事所があった同地には、寛文年間(1661-1672)に装剣金工の後藤程乗の屋敷も設けられました。その後藤程乗は延宝元年(1673)に亡くなりますが、屋敷については取り壊されたか不明です。その後、5代当主・前田綱紀卿が作事所を移転し蓮池庭の作庭に取り掛かるのです。作事所内にあった後藤程乗の屋敷と蓮池庭には、時系列上では断絶はありません。後藤程乗が亡くなったのちも、「程乗屋敷」という呼称はしばらく残っていたことも文献上確認できます。

〔變異記〕
 元祿三年三月十七日。新竪町より出火の時 、安房守西横本作事坂へ焼出、此の坂の脇に程乗屋敷と云て一亭あり、此所へは火不移。
〔改作所舊記〕元祿九年八月十二日の達書に、
 程乗屋敷へ度々遊御出在之、在々百姓、共後道可通行旨被仰渡。
田治六郎(1941.03)「兼六園の研究(一)」『造園雑誌』p22

 しかし残念ながら王伯子の屋敷、作事所、後藤程乗の屋敷とも詳細な絵図面が残されておらず、その規模や庭園の有無等はわかりません。蓮池庭については、少なくとも延宝四年(1676)からの作庭と言えることができます。それ以前に遡れるかについては、後続の研究が待たれます。
 一方、寛永年間説について重森三玲氏はこのように述べています。

 さて、本園の初期時代からの歴史を一覧することにしよう。本園は先ず、先述のように慶長十年頃に江戸町から始まっているが、やや降って寛永時代に入り、その頃に、小堀遠州が前田家の茶道指南として活躍していた関係から、利常との関係も深く、茶室や作庭のことについての相談があったのは当然であった。
 しかしその頃遠州は幕府関係の奉行や代官等の用務が多忙であったから、実際には金沢へ出掛ける閑はなかった。しかし作庭については、慶長時代から、遠州の配下として、傑出した作庭家の賢庭がいた関係で、遠州が設計した上で、賢庭が施工するのが常であり、例えば、寛永初年に京都の金地院作庭の時も、賢庭が施工に終始努力しながら、遠州は最初の設計と、完成した最後の御見廻りと称する見分だけに来ていることが、「本光国師日記」によって判明するから、前田家に対しても、遠州の設計と、賢庭の施工といった具合であることが一考される。さてこのことについては、「本光国師日記」の寛永七年四月十一日の条に
 一卯月十一日
 一同日。喜六下。久右衞門卯月五日之状來。良長老卯月五日之状來。松首座五日之状來。小遠州卯月五日之返書來。泉水之儀。賢庭加州へ下候間。上次第可申付候由申來。
とあって、これによると、寛永七年の四月頃を中心として、それよりも何カ月か早く、遠州が前田家の作庭とを依頼され、恐らく遠州自らの設計図を、配下の賢庭が持参して、前田家の作庭中であったことが解る。
(中略)
 そしてこの頃の作庭は、一体どの辺であったかを、現地について一覧すると、本園東南の角、即ち現石川県立美術館の東部で、山崎山(紅葉山)を中心とする場所であり、その当時は、この附近から成巽閣附近へかけての、前田家の屋敷内であったと考えられ、今日では山崎山附近のみが残ったのであるが、これは後に述べるように、この大築山の石組手法に、賢庭特技の石組手法が見られることによって、そのことが首肯出来るのである。
重森三玲・重森完途(1973.03)『日本庭園史大系 第二十四巻・江戸中末期の庭(一)』p43

 しかし、一方で下郷氏は寛永説について次のように批判しています。

 重森親子の説は、歴史的な資料を十分検討しないで結論を導いたものである。確かに寛永7年には賢庭が金沢にきているが、それは金沢城内・本丸の数寄屋と露地造りのためにやってきたのであって、兼六園の作庭とは関係ない。さらに、作庭の最初のとりかかった場所が山崎山であったというのは、どうしてもいただけない。寛永7年当時、この地一帯は奥村伊豫、横山右近、横山左衛門など7人の重臣の屋敷地となっていた。山崎山の辺りは奥村中務と横濱勘兵衛の屋敷地となっていた。これは「延宝金澤図」によって明らかである。
下郷稔(2000.12)「日本の庭と兼六園」『金沢大学大学教育開放センター紀要 第20号』p9

 古地図では、竹沢御殿が整備された後に初めて山崎山が描かれるようになります。ただし、実際に山崎山へ訪問すると兼六園の他の場所と比べてどこか古い感じが見受けられるのです。調べれば謎が深まる、不思議な庭園です。

蓮池庭の整備

 既に述べた通り、延宝四年(1676)に加賀前田家当主第5代目当主・前田綱紀卿が蓮池と呼ばれていた地域付近に別荘を建てました。これが蓮池御殿です。御殿の完成と同時に庭園も完成したと推定されます。この御殿では当主自身の娯楽の他に、重臣たちとの会食や江戸の御目付衆の接待にも使用されていました。また、元禄九年(1696)には金沢城二の丸の増築工事が始まった関係で、一年弱ではあったものの、蓮池御殿が綱紀卿の居所にもなります。その後も御殿や庭の改修・拡大が行われてました。
 宝暦九年(1759)に発生した宝暦の大火は、金沢の城下の大半を焼き尽くし、金沢城も大部分が焼失しました。蓮池庭の被害については詳細な記録が無いため不明となりますが、以後蓮池庭に関する記述がほとんど見られなくなることから、金沢城と城下町の復旧を優先したため荒廃したと考えられます。大火から10年以上の時を経て、11代当主・前田治脩卿の時代にようやく復旧工事が開始されました。安永三年(1774)より翠滝、夕顔亭、内橋亭が整備され、現在の瓢池の原形が見られるようになりました。

竹沢御殿から始まる「兼六園」の名称

 12代当主・前田斉広卿の時代、蓮池庭に隣接する土地に竹沢御殿という新たな御殿を建設します。元々体が強くなかったといわれる斉広卿は、早々に隠退を家臣たちに伝達しています。そしてその隠居先として、新たな御殿を造営させるのです。隠居後は部屋数200以上もあると言われた豪壮な御殿の中で能三昧の日々を過ごしたと伝わっています。
 この竹沢御殿の竣工に合わせて、附属する庭園(現在の雁行橋・七福神山付近か)の名称として「兼六園」が名付けられました。扁額の揮毫は陸奥白河領主・松平定信卿に依頼していますが、命名者ははっきりとしていません。この兼六園の名称の由来は、『洛陽名園記』の湖園を紹介する記述です。

洛人云、園圃之勝、不能相兼者六
務宏大者少幽邃、人力勝者少蒼古、多水泉者艱眺望
兼此六者、惟湖園而已

 宏大を務めれば幽邃少なし、人力に勝るは蒼古少なし、水泉多きは眺望難し、この六つを兼ねるは惟湖園のみ。命名者は斉広卿より庭園の様子を聞いて、この湖園の記述を思い出し命名したと思われます。しかし、命名当時の兼六園は現在と比べるとほとんど竹沢御殿が占める状況ではるかに小規模です。名の後に実体が追いつく形になっているのです。
 隠居した斉広卿は竹沢御殿完成の2年後の文政七年(1824)に亡くなります。13代当主・前田斉泰卿は天保元年(1830)より不要となった竹沢御殿の取り壊しを順次行い、跡地を庭園として整備していきます。万延元年(1860)には蓮池庭と旧竹沢御殿の間にある門や塀が取り除かれ一体化させます。また、竹沢御殿の池を拡大させ霞ヶ池とし、掘った土を栄螺山の築山に使用しました。こうして、現在に見られる兼六園が姿を現したのです。

試行錯誤の一般公開

 その後、明治4年(1871)に兼六園は「与楽園」と改称して徐々に一般公開されます。同年3月に「兼六園」と再び改称、明治7年(1874)に「兼六公園」として正式に公園として公開されました。しかし、当時の石川県の財政事情は厳しいものであり、公園の維持管理に苦慮します。そのため、兼六園内に茶店の進出を認めその経営者に兼六園の管理を任せるといった施策を実施しました。その結果、茶店が50軒以上も立ち並ぶ状態となり、風情を損なうことにもつながってしまいました。また、明治20年代には早くも荒廃が進んでいることが下郷氏の記述で分かります。

 明治二十年代後半の兼六園の荒廃は、目にあまるものがあった。樹木の手入れはほとんどされておらず、木の葉が曲水に留まり腐敗し異臭を放っていた。また、明治紀念之標の背後や金澤神社の周辺などは、雑草が生い茂って足の踏み場もなかった。兼六園が庭か、それとも荒れ果てた野原なのか分からない状態だった。これは当時の地元紙が伝えていることだ。
下郷稔(1998.03)『兼六園の今昔』p164

 さらに戦後に入ると景石や灯籠の盗難・破壊、苔までもむしり取られるなど被害が相次ぎます。徽軫灯籠の破壊も幾度となく行われ、昭和52年(1977)には大破してしまいました。現在の徽軫灯籠は2代目となり、初代は修復の上、保管されています。昭和51年(1976)、この事態を打開するため石川県は庭園保護を理由に、兼六園を有料化しました。これ以後、保存整備の体制がようやく整うようになり、昭和60年(1985)に兼六園特別名勝に指定されます。
 百年に渡る無料開放の痛手はあまりにも大きかったものの、関係者の努力により特別名勝にも指定されるほどに評価されるようになりました。今後もこの景観が維持されることを切に願います。

参考文献

兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所(1976.12)『兼六園全史』
下郷稔(2000.12)「日本の庭と兼六園」『金沢大学大学教育開放センター紀要 第20号』
石川県金沢城兼六園管理事務所(2013.09)『兼六園
下郷稔(1998.03)『兼六園の今昔』
田治六郎(1941.03)「兼六園の研究(一)」『造園雑誌』
重森三玲・重森完途(1973.03)『日本庭園史大系 第二十四巻・江戸中末期の庭(一)』p43