まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

西田家庭園 玉泉園

庭園情報


撮影:2018.11.16

  • 名称:西田家庭園 玉泉園
  • 旧称:前田家家臣 脇田家「玉泉園」
  • 作庭:脇田直賢、脇田直能、脇田直長、脇田九兵衛
  • 完成:(露地)寛文年間(1661-1673)明治期に再整備か、(本庭)宝永・正徳年間(1704-1716)
  • 備考:石川県指定名勝

苔が美しい、北陸の隠れた名園


撮影:2018.11.16
 石川県金沢市。幕末の動乱や第二次世界大戦の戦火にも巻き込まれなかったこの都市には、数多くの風情ある景色が残っています。玉泉園もその一つです。隣接する兼六園の広大さ、雄大さとはまた違う、苔が一面に広がる独特の雰囲気に飲み込まれます。そう、ここは脇田直賢という数奇な人生を生き抜いた男とその子孫たちが造った、全国に六例しか無いといわれる「玉澗流庭園」の一つなのです。

北陸唯一の「玉澗流庭園」

 この庭園は大きく分けて「灑雪亭露地」「本庭」「西庭・東庭」の3つに分けることができます。

灑雪亭露地

 灑雪亭露地は脇田直賢の嫡子である直能の代に完成しており、玉泉園の中では最も古い歴史を持ちます。『日本庭園史大系』によると作庭時期については寛文年間(1661-1673)と推定していますが、現在残されている池庭・露地は簡素なものだとして、明治期の整備としています。恐らくは一時荒廃したために、新たに露地・池庭を復旧させたと思われます。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2016.12.24

本庭

 本庭について、『日本庭園史大系』では庭園の地割から宝永・正徳年間(1704-1716)の頃に概ね完成したと推定しています。池泉は行書体の「水」の字の形をしていることが特徴で、年代の特定につながっています。また一方で、この本庭は「玉澗流庭園」の手法を取り入れているとの指摘がなされています。玉泉園と玉澗流庭園の関係性について、石井嘉之助氏は次のように記しています。

 玉泉園の上段と下段それぞれの庭園を調査した結果、特に下段の庭園の瀧石組、石橋、石組、石造物の植栽が、永禄年間(一五五八〜六六)に泉州堺で玉澗流作庭者の末とみられる珠慶坊が残した玉澗様山水図に該当するように感じられた。(中略)
 石川郷土史学会員の牧孝治先生も玉澗流庭園の手法を取り入れているのではないかと指摘されている。
 玉澗流庭園は、庭園の一つの流派の名称で、玉澗は十三世紀中国は南宋代末期から元代初期に活躍した画僧である。(中略)
 日本でその絵は茶人に珍重され、桃山時代にはいってから、その手法が作庭に取り入れられたと考えられている。従って玉澗流庭園は玉澗がつくったものではなく、絵画上の彼の潑墨手法による濃淡墨の鮮やかな処理による作品に触発された人物が編み出した作庭手法といったほうがよいものだ。
石井嘉之助(1997.09)「玉泉園に見る玉澗流の庭づくり」『庭』p51

 直賢の子孫は茶人として名を残していますので、実際に参考にしていても不思議ではありません。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

西庭

 西庭は西田氏が庭園を所有してからの改造が見受けられる部分です。一面の苔が広がり、石塔が点在する様子は美しいの一言です。

撮影:2018.11.16

撮影:2018.11.16

撮影:2016.12.24

数奇な人生を生き抜いて


撮影:2018.11.16
 この庭を造り始めたのは脇田直賢と言われています。幼名は金如鉄。生まれは朝鮮の漢城(現ソウル)になります。
 如鉄が7歳の頃、関白豊臣秀吉公は唐入りを決意。文禄元年(1592)には宇喜多秀家卿を総帥とする軍勢を朝鮮半島へ出兵させます。この戦いで漢城は陥落、金如鉄の父も戦死します。如鉄はそのまま秀家卿の捕虜となり、岡山へ連れられてきます。岡山では秀家卿の正室である豪姫に養育され、翌年からは前田利長卿の正室である永姫(後の玉泉院)に育てられました。元々文官の家の出身だった影響か、文章を記す能力を既に習得していたことも注目された要因の一つかもしれません。その後、脇田家に婿入りして脇田直賢を名乗り、近習として利長卿に仕えました。

撮影:2018.11.16
 文官としての能力を徐々に発揮していく直賢に転機が訪れます。直賢が脇田姓を名乗りだした当時、前田家家中は隠居した利長卿と家督を継いだ利常卿でそれぞれ家臣団が形成されていました。前述の通り彼は利長卿の近習でしたが、その利長卿は慶長十九年(1614)五月に薨去されました。その際、直賢は次の句を詠んだと記録されています。

 四方はみな袖乃あまりの五月哉
「家伝 ―金(脇田)如鉄自伝―」の「如鉄家傳記」より引用

 悲嘆にくれる直賢ですが、同年十月に勃発する大坂冬の陣では大津にて利常卿率いる軍と合流し参陣します。「如鉄家傳記」によると、利長卿の家臣で参陣したのはわずか4名。この直賢の行動について中野節子氏は「加賀藩家臣団編成と脇田直賢(如鉄)」で次のように述べています。

 直賢のように、利長死去後の間もない時期に、利常の軍団に積極的に加わった者はむしろ稀といえる訳で、このことに、直賢の前田家中で生き抜こうとする姿勢が象徴されているように思われる。
加賀藩家臣団編成と脇田直賢(如鉄)」『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究 ―加賀藩を中心に―』p68

 翌慶長二十年(1615)の大坂夏の陣では大坂城玉造口にて戦功をあげ、二〇〇石の加増を受けます。さらに寛永八年(1631)に恩賞の見直しが行なわれ、新たに五七〇石が加増、合計で一千石の俸禄となりました。なお、この恩賞の見直しの動きは後に「寛永の危機」と呼ばれる前田家謀反の疑惑に繋がり、現在の東京大学本郷キャンパス「育徳園」の初期整備や玉泉院丸庭園の造園の遠因にもなっていきます。(詳細は「玉泉院丸庭園」を参照)

撮影:2018.11.16
 文武とも実力を示した直賢は、最終的には小将頭、金沢町奉行と朝鮮出身者としては異例の出世をとげ、万治二年(1659)に家督を嫡子の平丞(後の脇田直能)に譲り隠居します。その際、名を幼名の「如鉄」に改めました。そして翌年に「如鉄家伝記」をまとめ、その生涯を閉じるのです。「如鉄家伝記」の冒頭にはこのような記述があります。

 生國朝鮮帝都。父金氏、字時省、翰林學士。母性名失念ス。予名如鉄ト号ス。
笠井純一(1991.03)「家伝 ―金(脇田)如鉄自伝―」『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究 ―加賀藩を中心に―』

 自らの生まれを冒頭に記し、朝鮮出身であることを強調しています。しかし一方で、文禄の役に関する内容は客観的、そして淡々としており、むしろ自らが大坂の陣での活躍やその後の役職での記述に重点が置かれています。彼は何を思いながら、金沢での人生を過ごしたのでしょうか。その答えは、彼の晩年より着工され、その後4代にわたり造園が継続された玉泉園と共に隠されているのかもしれません。

参考文献

重森三玲・重森完途(1973.12)『日本庭園史大系 第二十二巻・江戸初期の庭(九)』
重森三玲(1936.11)『日本庭園史圖鑑』
石井嘉之助(1997.09)「玉泉園に見る玉澗流の庭づくり」『庭』
鶴園裕(1991.03)「近世初期渡来朝鮮人研究序説 ―「少年捕虜」に関する覚え書き」『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究 ―加賀藩を中心に―』
笠井純一(1991.03)「家伝 ―金(脇田)如鉄自伝―」『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究 ―加賀藩を中心に―』
中野節子(1991.03)「加賀藩家臣団編成と脇田直賢(如鉄)」『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究 ―加賀藩を中心に―』
笠井純一(1991.03)「脇田如鉄関係史料集」『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究 ―加賀藩を中心に―』
崔官(2013.03)「脇田直賢(金如鉄)と子孫の生き方」『野村美術館研究紀要』