まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

京都御所 御池庭・御内庭・南庭【訪問編】

f:id:m00611108:20210828211356j:plain

京都御所 御池庭」 撮影:2016.11.03

庭園情報

  • 名称:京都御所 御池庭・御内庭・南庭
  • 作庭:不明
  • 完成
    • 【御池庭】延宝三年(1675)、その後改修されたと推定
    • 【御内庭】寛政二年(1790)、その後改修されたと推定
  • 住所:京都府京都市上京区京都御苑

千年の都の中心にして、近代日本の幕開けの舞台

 畏こくも明治天皇御叡慮により、京都御所はかつての姿のまま保存されてきました*1。残念ながら、第二次世界大戦時の建物疎開により大台所等の多くの建築物が破却されましたが*2、それでもなお、かつての御所の雰囲気をよくとどめています。

 現在の京都御所安政二年(1855)に竣工した、比較的新しい建築です。しかし、この御所は、その後の幕末史の重大局面である「禁門の変」「王政復古の大号令」「小御所会議」「五箇条の御誓文」の舞台となるなど、近代日本の幕開けを象徴する建築となります。そしてその御所には「南庭」「御池庭」「御内庭」といった庭園が設けられ、日本の重大局面を見守っていました。 

御池庭

f:id:m00611108:20200121215731j:plain

京都御所 御池庭」 撮影:2020.01.13

f:id:m00611108:20200121215811j:plain

京都御所 御池庭」 撮影:2020.01.13

f:id:m00611108:20200121215852j:plain

京都御所 御池庭」 撮影:2020.01.13

  御池庭は小御所、御学問所の東側に面した池泉回遊式庭園です。度重なる御造営のため、御池庭の築庭がいつであるか明確ではありません。重森三玲氏は延宝度御造営時の古図が現状の御池庭と似ていることから、このときに概ね完成したと推定しています*3

洲浜

f:id:m00611108:20210822231657j:plain

京都御所 御池庭 洲浜」 撮影:2020.01.13

 池の手前には栗石が敷かれた洲浜があります。重森三玲氏は勾配がやや急であること、栗石が荒粒であることから延宝期(1673~1681)以後の手法であるとしています*4

飛石

f:id:m00611108:20210822232144j:plain

京都御所 御池庭 飛石」 撮影:2020.01.13

f:id:m00611108:20210828071256j:plain

京都御所 御池庭 飛石・岩島」 撮影:2016.11.03

 御池庭の中央部付近に飛石が配置されています。飛石は栗石敷の洲浜を突き抜けて池の中まで到達しており、そこから乗船できるようになっています。また、近くの岩島は船をつなぐ石と推定されています*5

欅橋

f:id:m00611108:20210828104816j:plain

京都御所 御池庭 欅橋」 撮影:2016.11.03

 御池庭の南側に、「欅橋」が中島に架かっています。もとは総欅造の木橋でしたが、現在は欄干部のみ欅となっています*6。勾欄には逆蓮の擬宝珠が乗せた装飾があります*7。なお、昭和50年(1975)に英国・エリザベス二世女王陛下が訪問された際、この欅橋上で鯉に餌を与えています*8

蓬萊島

f:id:m00611108:20210828211937j:plain

京都御所 御池庭 欅橋と蓬萊島」 撮影:2016.11.03

 欅橋を渡った先にあるのが「蓬萊島」と推定される中島です。御池庭には三つの中島があり、その中でも最も大きな島が南側に位置しています*9。現在、京都御所の一般参観では、欅橋を渡り、「蓬萊島」の中を散策することはできません。

鶴島

f:id:m00611108:20210828214043j:plain

京都御所 御池庭 鶴島」 撮影:2016.11.03

f:id:m00611108:20210828214503j:plain

京都御所 御池庭 鶴島」 撮影:2020.01.13

 御池庭の三つの中島の内、中央に位置する最も小さな島。重森氏はこの中島について、改造や修理が多くて不明*10としながらも、池に浮かぶ長い横石は鶴の嘴を想起させるものであつことから、北側の中島「亀島」と対をなす「鶴島」と推定しています*11

亀島

f:id:m00611108:20210828220834j:plain

京都御所 御池庭 亀島」 撮影:2020.01.13

 「亀島」は、御池庭にある三つの中島の内、最も北側にあります。島の東西に二つの石橋が架かっており、御常御殿と蓬萊島の両方面を繋いでいます。島の南端に設置されているのが「亀頭石」です。重森氏は「亀島」について、三島の内で最も江戸時代初期の手法が残っているとしています*12

御内庭

f:id:m00611108:20210828235338j:plain

京都御所 御内庭 築山」 撮影:2016.11.03

f:id:m00611108:20210829000550j:plain

京都御所 御内庭 土橋」 撮影:2016.11.03

f:id:m00611108:20210828235512j:plain

京都御所 御内庭 築山」 撮影:2016.11.03

f:id:m00611108:20200121220223j:plain

京都御所 御内庭 曲水」 撮影:2020.01.13

f:id:m00611108:20210829001658j:plain

京都御所 御内庭 八橋」 撮影:2020.01.13

f:id:m00611108:20200113104806j:plain

京都御所 御内庭 御涼所」 撮影:2016.11.03

 御池庭の先、御常御殿の前にあるのが「御内庭」です。この「御内庭」は鑓水、流れの庭園です。陛下の普段のお住まいという御常御殿の性格から、非常に柔らかい印象を受ける庭園ですが、所々に豪壮な石組もあり、それらがうまく調和されています。御内庭も調査している重森氏は次のように記しています。

 この曲流は、常御所附近は延宝期にはなく、寛政造営時代に作られたことが分り、迎春以北は、安政造営以後に作庭されたり、明治以後の改修となっている。いずれにしても、この曲流は一種の鑓水式であり、古い伝統によるものであるが、すべての様式は江戸中期的となっている。*13

献上品

f:id:m00611108:20210829000034j:plain

京都御所 御内庭」 撮影:2016.11.03

f:id:m00611108:20210829000854j:plain

京都御所 御内庭 八瀬村献上の石橋と二条斉敬公の槇」 撮影:2020.01.13

 宮内庁京都事務所によると、御内庭には多くの献上品が配置されているとしています。大きな石を用いた石橋は八瀬村が、その脇にある槇は摂政・二条斉敬公がそれぞれ献上したもの。この他に徳川慶喜公が献上した陶器雪見灯籠も配置されています*14

泉殿(地震御殿)

f:id:m00611108:20210829003505j:plain

京都御所 御内庭 泉殿(地震御殿)」 撮影:2016.11.03

f:id:m00611108:20210829003944j:plain

京都御所 御内庭 泉殿(地震御殿)」 撮影:2020.01.13

  「泉殿」は御内庭内に設置されている茶屋のような建物。地震発生時の天皇の避難場所として設置されているもので、「地震御殿」とも呼ばれています*15。現在の泉殿は文政京都地震(1830)を受けて造営、その後安政度御造営(1855)に修理された建築です。避難施設のため内部構造が簡素な作りとなっていることが、結果的に地震に強い建築となったとする指摘もあります*16

南庭

f:id:m00611108:20200121215633j:plain

京都御所 承明門」 撮影:2020.01.13

f:id:m00611108:20200121215700j:plain

京都御所 紫宸殿」 撮影:2020.01.13

  「南庭」は紫宸殿の南側に面した広大な白砂の庭です。紫宸殿は京都御所の正殿で、「五箇条の御誓文」の発布や、明治天皇大正天皇昭和天皇の即位礼が行われた場所でもあり、その際はこの「南庭」で旙(のぼり旗)が並べられるなど儀礼空間として活用されてきました。

 重森三玲氏は『日本庭園史大系』で次のように語っています。

 京都皇居の中には、紫宸殿の前に砂敷の南庭(だんてい)がある。ここは一木一草もなく、砂敷の広場であって、大典の式が挙行されるところであり、このような砂だけの広場このことを、古くから庭(テイ、又はニワ)といった。本来の庭という文字は、広場の意味であり、池庭や枯山水の、今日庭園と称する場所は、古くは散水、泉石、林泉、園池、仮山その他の称があって、庭園とはいわなかった。*17

 千年の都の中心である京都御所徳川将軍家を筆頭とする武家が造った日本庭園とは違う、優雅な朝廷文化を感じさせる庭園群です。

引用・参考文献

*1:森忠文(1977)「明治初期における京都御苑の造成について」『造園雑誌』41巻3号p16

*2:宮内庁京都事務所(2013)『《京都》御所と離宮の栞 其の六』p2

*3:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p75

*4:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p78

*5:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p78-79

*6:宮内庁京都事務所(2012)『《京都》御所と離宮の栞 其の一』p2

*7:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p79

*8:宮内庁京都事務所(2012)『《京都》御所と離宮の栞 其の一』p2

*9:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p76

*10:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p76

*11:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p79

*12:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p79

*13:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p78

*14:宮内庁京都事務所(2012)『《京都》御所と離宮の栞 其の二』p2

*15:宮内庁京都事務所(2021)『《京都》御所と離宮の栞 其の二十五』p4

*16:川崎一朗・髙橋昌明・北原糸子 他(2011)「京都御所泉殿地震殿の歴史と地震防災」『京都歴史災害研究』12号p4-5

*17:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p81