まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

清澄庭園


撮影:2016.04.08

庭園情報

  • 名称:清澄庭園
  • 旧称:岩崎家深川別邸 深川親睦園
  • 旧称:岩崎家深川別邸 清澄園
  • 作庭:岩崎弥太郎 磯谷宗庸
  • 備考:都指定名勝

明治を代表する名庭


撮影:2016.04.08
 東京都江東区清澄。都営地下鉄大江戸線東京メトロ半蔵門線清澄白河駅」から徒歩3分。どこか古き時代の面影を残す看板建築群の奥に、木々が生い茂る一角が見えます。東京の庭園の中でも名庭の一つとして挙げられる清澄庭園です。かつての大名屋敷の庭園を、岩崎家が三代かけて大改造を施し、三菱財閥の接遇施設として用いられてきました。現在は東京都が管理する文化財庭園の一つとして一般に公開されています。

三菱財閥・岩崎家の接遇施設

造園前史


「江戸切絵図 本所深川絵図」より現清澄庭園付近を拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクションより)
 江東区清澄。かつて深川清住町や深川伊勢崎町と呼ばれたこの地域は、元々遠浅の海であったと考えられています。開発が本格的に行われるようになるのは江戸時代。江戸市中の度重なる大火災への対策として本所・深川の埋め立てを行い都市機能を分散させようとします。寛永十八年(1641)に火災の原因となった日本橋の材木置場を深川猟師町へ移転。明暦三年(1657)に発生した「明暦の大火」後には河川の開削・整備や寺院の移転・造営が行われました。更に寛文元年(1661)には両国橋の架橋が行われ、新たに大名屋敷地の拝領も行われるようになりました。後に清澄庭園の主要部となる敷地には関宿久世家の下屋敷がありました。しかし、激動の幕末、そして維新の頃には屋敷地を返上したと思われ、所有者が転々と変わった後、明治11年(1878)に三菱財閥創業者にして初代総帥の岩崎弥太郎氏が付近一帯の土地を購入しました。

初代総帥・岩崎弥太郎氏と深川親睦園

 岩崎弥太郎氏の数少ない趣味の一つは造園だったとは言われます。彼がこの地を購入したことについて、井上清氏が「東京都の寄附公園と岩崎久弥翁」で次のように記述しています。

 清澄庭園の地は、幕末には久世大和守(主として現在公開部分)、戸田日向守、松平右京、伊奈松平美濃守などの邸であつて、明治維新に際し何れも荒廃し放任の状態であつたものを明治十年頃、岩崎弥太郎氏は時勢の趨勢を察し、残存する風景と水運の便は大規模の造園に適することを見て直に敷地の取得に着手し同十一年には約三万坪の地域をまとめ、社員平素の労を慰め故旧賓客を招く大庭園の造営を企図し自ら指揮監督して工を起し、同13年ほぼ竣成したので深川親睦園と命名し、園規を設け社員の休養団欒の地とした。

 また、『岩崎彌太郎傳(下)』では次のように記述している。

この地はもと久世、戸田、松平右京、松平美濃守等の下屋敷の跡で、庭園の主要部は久世大和守の屋敷跡であるといはれる。久世氏は御書院番から出頭した久世廣之を祖とし、下總關宿五萬石の大名であった。清住に下屋敷を構へたのは、恐らく老中として權勢を張つた大和守重之の時代(享保頃)であるらしい。維新後は所有者も變り、内務大輔前島密の所有者もその中にあつた。彌太郎は昔の庭を改修し、新たに規模を擴大し、全国各地から樹石を蒐めて一應の工事を了へた。

 これらの記述から、原型となる庭園は関宿久世家下屋敷時代に既に造園されていたものの幕末維新にかけて荒廃。その後岩崎弥太郎氏が購入し改造を施していったと思われます。造園が一段落した明治13年(1881)に「深川親睦園」と命名され、三菱社員の慰安の場や賓客の接遇施設として用いられました。明治18年(1885)、岩崎弥太郎氏は海運業界での壮絶な死闘の最中に亡くなりますが、未完の清澄庭園の造園は続けられます。

二代総帥・岩崎弥之助氏と清澄園

 岩崎弥之助二代総帥は兄、岩崎弥太郎氏の遺志を継ぐように造園を続けました。『岩崎彌之助傳 上』では次のような記述があります。

 岩崎彌太郎は庭作りの名人で、芿澄庭園(東京深川)と六義園(文京區上富士前)の二つの庭を殘してゐる。(中略)。兩庭園は彌太郎の歿後、彌之助が引續き工事をおこなつた。母美和の手記に『彌之助は豫ねて兄の趣意を一つ一つ仕上げいたすと申す事にて、一番に駒込六義園)の鴨池を始め、深川(芿澄園)へは國々の石を集めて庭を始め、そのうち深川の家(別邸)を建てることを考へ、國々の材木を取寄せ、大工棟梁は小三郎(河田)、營繕は岡本(春道)、庭方は吉永(治道)、森田(晋三)、谷内どもが世話いたす』と見える。

 岩崎弥之助氏は明治19年(1986)に京都の茶匠である磯谷宗庸氏を作庭の監督として招きます。磯谷氏の指揮の下、庭園は明治24年(1891)に完成しました。また、岩崎弥之助氏は庭園の施設として日本館、西洋館を建設、明治22年(1889)に竣工します。こうして、後に明治の名庭として挙げられる「清澄園」は完成したのです。

三代総帥・岩崎久弥氏と清澄庭園


撮影:2016.04.08
 岩崎久弥三代総帥の頃には、隆盛する三菱財閥を背景に、明治を代表する東京の庭園「清澄園」として知られるようになっていました。大英帝国陸軍元帥キッチナー氏が来日した際、新たに「池の御茶屋」を新築し、歓待しました。この「池の御茶屋」は、「涼亭」として清澄園時代から残る唯一の建築物となります。また大清国皇族載濤殿下が国賓として来日した際も、岩崎久弥氏は清澄園にて歓迎の宴を催しました。その場には三菱財閥の重役をはじめ、松方正義内閣総理大臣寺内正毅陸軍大臣小村寿太郎外務大臣斎藤実海軍大臣、川崎芳太郎神戸川崎銀行頭取、松方幸次郎川崎造船所社長、清朝と関係の深い川島浪速氏など錚々たる顔ぶれが並んでました。清澄園は民間施設でありながら、重要な接遇施設となっていたのです。一方、岩崎久弥氏は庭園の公共的意義や価値が加わり、また維持管理に特殊な技術や多くの人手を要することから、清澄園の一般公開を検討するようになります。その一環として清澄園の管理を岩崎家から三菱合資会社に移管します。一般公開へ向けて着々と準備が進む中、東京は激震に襲われます。
 大正12年(1923)9月1日、後に関東大震災と呼ばれる地震により、東京は大きな被害を受けます。特に清澄園のある東京・深川地区はほとんどが火災の被害に遭う等、壊滅状態に陥ります。清澄園も例外ではなく、建造物は日本館、西洋館とも焼失、水門破損により全園水浸し、庭木も火災により悉く全滅の被害に遭っています。しかし、清澄園は近隣住民の避難所として機能し、一万人とも言われる避難者の命を火災から守ったのです。この事例により公園の存在、特に日本庭園の役割が注目を集めるようになります。一方、三菱合資会社は壊滅的被害を受けた清澄園の西半分を貯木場と製材所に転用するなどして復興事業に協力します。三菱合資会社、及び岩崎家としては既に清澄園を修復保存する必要性が無いと判断、庭園を他用途への転用を検討し始めました。しかし、当時東京市公園課長であった井下清氏が説得に当たります。氏が執筆した「東京都の寄附公園と岩崎久弥翁」では、次のように記述しています。

筆者は清澄庭園の価値は決して建築や老樹ばかりでなく、造園当初の目的、雄偉なる林泉の地割、豊富な庭石と雄揮な岩組にあることを強調した結果、被害の比較的尠い東半部は予定通り公園として市へ引き渡し市は直に公園として復興開園することゝし、西半部は既に焦眉の急を救はんと着手してをる製材所の施設を充実し震災復興に寄与することに決定された。

 井上公園課長の説得により岩崎家の理解を得られ、元の庭園の半分ではあるものの、東京市へ寄付される事になったのです。東京市はかつての日本館の跡地に集会施設として大正記念館を移築し、自由広場を設ける等の整備を進め昭和7年(1932)に「清澄庭園」として開園します。その後も庭園の震災復旧工事が進められていましたが、第二次世界大戦末期には米軍による無差別爆撃により東京は焦土と化し、深川地区は再び壊滅状態に陥りました。清澄庭園も大正記念館をはじめとする建築のほとんどを焼失してしまいます。この悲劇的な大惨事においても、清澄庭園は震災時と同様に避難所として機能し、近隣住民の命を救うのです。敗戦から六年後の昭和26年(1951)から庭園の復旧事業が3年にわたり開始され、大正記念館も江東区の協力もあり昭和28年(1953)に再建、戦災からの復興を果たしました。そして現在、敗戦後70年が過ぎ、壊滅した庭木も復旧事業で植えられた若木が成長、往年の名庭が新たな表情を見せながら復活を果たしたのです。

江戸時代の庭園様式を残す最後の庭園

 先述の通り、清澄庭園は本来の規模から半減していますが、それでもなお東京の名園の一つと言われています。

石組

 清澄庭園最大の特徴といえるのが、数々の名石やそれを用いた石組たちです。岩崎家が自ら経営する海運業を駆使して全国から収集した名石をこの庭園に用いてきたのです。震災、そして戦災を経てもなお残る石組は、往時の面影を伝えてくれます。

「伊豆磯石」 撮影:2016.04.20

「真鶴石」 撮影:2016.04.20

「伊豆磯石」 撮影:2016.04.20

「伊豆式根島石」 撮影:2016.04.20

「富士山の枯滝の石組」 撮影:2016.04.20

「旧傘亭付近の石組」 撮影:2016.04.20

「石橋」 撮影:2016.04.20

「大正記念館前の石組」 撮影:2016.04.20

「大正記念館前の石組」 撮影:2016.04.20

「大磯渡り」 撮影:2016.04.20

涼亭

 清澄園時代から残る唯一の建造物である涼亭。明治42年(1909)に保岡勝也氏の設計により建築されましたが、昭和61年(1986)に老朽化のため解体、旧材を可能な限り再利用しながら改築されました。庭園内のどの箇所でも絵になる、まさに庭園の為の建築といえます。

撮影:2016.04.20

撮影:2016.04.20

撮影:2016.04.20

撮影:2016.04.20

富士山

 現在は頂上付近の樹木はかつては無く、富士山の形をより強調した築山でした。

撮影:2016.04.08

中の島・鶴島

 庭園の東側にある島が中の島と鶴島です。桜の季節になると中の島内のオオシマザクラが開花し、その美しさに見惚れてしまいます。

「中の島」 撮影:2016.04.20

「中の島」 撮影:2016.04.20

「中の島のオオシマザクラ」 撮影:2016.04.08

「鶴島」 撮影:2016.04.20

松島

 庭園の西側にある島で、多重塔や雪見灯篭が設置されています。庭園を訪れて最初に見られる光景でもあります。

撮影:2016.04.08

撮影:2016.04.20

長瀞

 庭園内の中でも一際力強い光景が広がるのが長瀞峡です。

撮影:2016.04.20

撮影:2016.04.20

参考文献

北村信正(1981.5)『清澄庭園
景山致恭ほか(1849-1862)「本所深川絵図」『江戸切絵図』
井下清(1956.8)「東京都の寄附公園と岩崎久弥翁」『造園雑誌』Vol.20(1)(1956.8)
岩崎家傳記刊行会(1967.11)『岩崎彌太郎傳(下)』
岩崎家傳記刊行会(1971.8)『岩崎彌之助傳(上)』
岩崎久彌傳編纂委員會(1961.12)『岩崎久彌傳』
佐藤正𠮷(1987.3)「清澄庭園涼亭の改築」『都市公園』Vol.90(1987.3)