まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

日本工業倶楽部会館


撮影:2012.06.10

建築情報

名称:日本工業倶楽部会館
用途:倶楽部・会館
設計:横河民輔、松井貴太郎、橘教順
竣工:1920年11月
備考:国登録有形文化財

「財界の記念碑」


撮影:2012.06.10
 東京駅丸の内口を出ると、2棟の近代建築を見る事ができます。一つは、モダニズム建築の代表作である「JPタワー」(旧東京中央郵便局)、そしてもう一つが「日本工業倶楽部会館」です。薄茶色の、どこか印象深いこの建築は、かつて日本の産業界を代表する日本工業倶楽部の拠点でした。第一次世界大戦後の飛躍的な発展と第二次世界大戦後の壊滅的な打撃、戦後復興から高度経済成長。数々の日本の経済史における舞台となってきたこの建築は、財界の記念碑なのです。

大きすぎた、関東大震災の被害と再生

 日本の産業界は、明治維新の「殖産興業」から始まり、日清戦争日露戦争を経て、第一次世界大戦を契機に飛躍的な発展を遂げるに至りました。その原動力となったのは工業家の献身的な努力によるものが多くありました。しかしながら、当時の産業界の実状は、各工業家同士における連絡の機関は設けられておらず、相互の意思疎通が欠如していました。そのため、国家への貢献に比べて、工業家の社会的・経済的地位は低い状況でした。一方で金融界は「東京銀行集会所」が1880(明治13)年に組織されており、政治的影響力を増大させていきました。
 日本の産業の発展の担い手となる工業家は、その職責に対する誇りや自覚を持ちつつありました。そして、彼らは痛感します。金融界の後塵を拝す現状を打破し、産業界の発展と利益を確保するための強力な団体が必要であると。こうして、「日本工業倶楽部」が組織され、新たに会館が建築されました。これが、「日本工業倶楽部会館」となるのです。

撮影:2012.07.22
 1920(大正9)年に新築された会館ですが、1923(大正12)年に大きな試練を迎えます。関東大震災により煙突が破壊され、西側の1階陳列室の柱が挫屈し、外壁内壁の至る所に亀裂が生じてしまいました。幸い、大きな被害を出したものの致命的な倒壊は免れました。この為、建替えではなく補修することで復旧を目指しました。しかしこの時の被害が、後の保存に大きな影を落とすことになるのです。
 竣工後80年近く経った1998(平成10)年、日本工業倶楽部三菱地所と共同で会館を含めた敷地の再開発計画を発表しました。会員利用者に対するニーズへの対応、老朽化による維持管理費、耐震性といった問題が背景としてありました。この発表に対して、日本建築学会をはじめとした各種団体、そして一般市民より当会館の保存を求める要望が寄せられました。これを受け、日本工業倶楽部は日本都市計画学会に「日本工業倶楽部会館歴史検討委員会」を設置、歴史的価値と安全性の確保の両立が議論されました。全面保存も検討されましたが、関東大震災で挫屈した柱の曲がった鉄筋や床の大亀裂が残っている中、躯体を更新せざるを得ませんでした。結果的に、建物の3分の1を保存し、残りは古材を活用するなどして再現を図り躯体を更新、そして全体を免震構造にする方法を採用するに至りました。

撮影:2012.06.10
 2003(平成15)年、全面保存こそ叶わなかったものの、一部保存と再現により今までの美観は辛うじて保たれながら竣工しました。「東京銀行協会ビル」(旧東京銀行集会所)、「大手町野村ビル」(旧丸ノ内野村ビル)の外壁保存に対し様々な意見が出される中、日本工業倶楽部の保存方法は一つの新たな可能性を示したのです。

貴重な大正時代のセセッション様式


撮影:2012.06.10
 『日本工業倶楽部会館保存再現工事報告書』では次のように記述されています。

 外観様式は「近世復興式」で、正面玄関に古典様式を用いているが全体的には幾何学的構成によるゼツェッシオン様式で簡素にまとめられている。また、軸組みをファサードに露出させるというアメリカ式高層建築の形式を取り入れるなど、大正期の時代性が強く反映している。一方、内装は倶楽部建築らしく華やかであり、各階の中心にある広間とそれらを立体的につなげる大階段、談話室、貴賓室、そしてなによりも大会堂、大食堂といった大空間に見事な装飾と空間性を見ることができる。

 第二次世界大戦での敗戦後、「経済大国」「ものづくり大国」への道を歩んだ日本。我ら産業界が新時代を切り拓く、という新勢力の台頭と力強い意志を感じさせる印象深い建築です。

参考文献

三菱地所(2001.03)『日本工業倶楽部会館歴史調査報告書』
三菱地所設計(2003.12)『日本工業倶楽部会館保存再現工事報告書』