まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

神奈川県立歴史博物館


撮影日:2009.04.11

建築情報

名称:神奈川県立歴史博物館
旧称:横浜正金銀行 本店本館
旧称:東京銀行 横浜支店
旧称:神奈川県立博物館
用途:銀行
設計:妻木頼黄
竣工:1904年
備考:国指定重要文化財・国指定史跡

ドームを戴く、壮大な建築


撮影日:2009.04.11
 横浜、関内。旧居留地の一つとして指定されていたこの地には、多くの歴史的建造物が残っています。その中でも、一際目立つ建築があります。馬車道を進むと、突然ドームを戴く壮大な建築が眼前に現れる建築こそが、「横浜正金銀行 本店本館」となります。設計者は、明治建築界の三巨頭の一人である妻木頼黄博士。隣接する日本興亜馬車道ビルとの風景は近代横浜の象徴的な空間になっています。

明治期横浜の象徴


撮影日:2009.02.20
 安政五年(1858)年、江戸幕府アメリカ合衆国日米修好通商条約を締結しました。この関係で、横浜は安政六年(1859)に開港し、外国商人との取引が盛んとなります。しかし、1877(明治10)年の西南戦争勃発によりインフレが発生する等して、政府が発行する紙幣と正貨に差価が生じ、商人たちを悩ませました。このため、正金(現金)による堅実な金融と取引の円滑化、さらに貿易を促進する為、横浜正金銀行が設立されました。
 この「横浜正金銀行 本店本館」は、1899(明治32)年から、妻木博士の設計により着工、1904(明治37)年に竣工しました。『横浜正金銀行建築要覧』では、

外観ノ輪奐ヲ覚メズ又館内ノ設備ニ於テモ粧飾ノ華麗を求メズ専ラ実用ト堅牢ヲ主眼トシテ設計シ

と記述されています。しかし、文面とは裏腹に、壮大さを感じさせるこの様式建築は、1896(明治29)年に竣工した辰野博士による「日本銀行 本店」への対抗心を感じずにはいられません。後の国会議事堂建設への二人の死闘を暗示させます。
 世界三大為替銀行の一角を占めるようになって間もない1923(大正12)年、関東大震災により当建築も打撃を蒙ります。地震直後、建物には別状が無かったものの、その後の火災によりドーム及び内部が焼失してしまいました。震災後、横浜の復興が遅れる中で、横浜正金銀行も本店機能を横浜から東京へ移していきます。そして、横浜正金銀行第二次世界大戦敗戦後、GHQにより解体を余儀なくされました。
 転機が訪れるのは1964(昭和39)年。神奈川県が博物館整備の為、東京銀行横浜支店(旧「横浜正金銀行 本店本館」)を買収しました。明治期の横浜を代表する「横浜正金銀行 本店本館」こそ、神奈川県の博物館に相応しいという判断からでした。そして、博物館への改修工事に際して、震災で失われたドームを復元することになったのです。1967(昭和42)年、晴れて神奈川県立博物館として開館、1969(昭和44)年には、国の重要文化財に指定されました。

世界三大為替銀行へ飛躍を予感させる、妻木博士の傑作


撮影日:2009.02.20
 当建築の様式に関しては、「ドイツ・ルネサンス」とする文献が多くあります。一方で、『横浜正金銀行:世界三大為替銀行への道』では、次のように記述されています。

 旧横浜正金銀行本店の建築のスタイルについては、「ドイツ・ルネサンス」とされることが多い。

(中略)

 これらの文書における「ルネッサンス」は、今日いうところの古典主義(クラシック)の様式建築と解すべきであろう。

(中略)

 旧横浜正金銀行本店の建築は、妻木の作品としては数少ない石造の外観を持つ正統的なクラシックの様式建築の表現を持つ建物ではあるが、そのこととドイツになんらかの関わりがあるだろうか。それはおそらくあまりないであろう。強いてあげれば、正八角形ではなく長辺と短辺の組み合わせからなる変則的な八角形のプランのやや骨ばったドームの形がドイツ的といえばそういえなくもないが、元来ドイツにはドームを伴った建物がそれほど多くない。旧横浜正金銀行本店の建物は、古典主義的(クラシック系)の様式建築というだけで十分と思われるが、強いて様式をいうとすれば、三階分貫いて立つ突出部の大きい大オーダーの付柱の短い間隔の密な配置からして、「ネオ・バロック」とするのがふさわしいと思う。 

 国会議事堂建設の練習を兼ねたとも言われる「横浜正金銀行 本店本館」。世界三大為替銀行へと飛躍を予感させる、威風堂々たる建築は、妻木博士を代表作です。

参考文献

神奈川県立歴史博物館(1995.3)『重要文化財横浜正金銀行本店本館復元の記録』
神奈川県立歴史博物館(2004.7)『横浜正金銀行:世界三大為替銀行への道』