まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

法務省 旧本館


撮影日:2014.05.30

建築情報

名称:法務省 旧本館
旧称:司法省 庁舎
用途:官公庁
設計:Hermann Ende , Wilhelm Böckmann , 河合浩蔵(工事監督)
竣工:1895年
備考:国指定重要文化財

霞が関に建つ、赤レンガの庁舎


撮影日:2014.05.30
 東京、霞が関。中央官庁が立ち並ぶこの地区は、まさしく日本国の行政の中心地の一つとなります。高層ビルが立ち並ぶ一角に時代から取り残されたような赤レンガ建築があります。「法務省 旧本館」です。有名な赤レンガ建築「東京駅 丸ノ内本屋」よりも先に重要文化財に指定されたこの赤レンガ建築は、「官庁集中計画」という一大プロジェクトの中で建設されました。しかし、「官庁集中計画」は紆余曲折の末、わずか三棟の洋風建築の竣工を持って終わりを告げます。「法務省 旧本館」は、この「官庁集中計画」を伝える、唯一の建築なのです。

「官庁集中計画」唯一の生き証人


撮影日:2014.05.30
 時に明治19年、当時の政府にとって、江戸時代に締結された欧米各国との不平等条約の改正が大きな課題となっていました。この条約改正を実現するために、当時の外務卿・井上馨(後、初代外務大臣)は鹿鳴館を建設し外国使節を歓待した、いわゆる「鹿鳴館外交」を展開します。その延長線上として、洋風建築の官庁街を新たに建設する事をを企図します。
 この官庁集中計画を引き受けたのはドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンでした。彼らは1860年に共同でベルリンに建築事務所を開き、以後1896年の長きにわたって建築活動を行いました。今までの「「お雇い建築家」と比較してもずば抜けた力量を持っている建築家です。彼らは官庁集中計画の始点となる議院、裁判所、司法省の三建築の契約を日本政府と結び、官庁集中計画という大プロジェクトがいよいよ始動します。
 しかし、条約改正交渉は決裂してしまい、井上外務大臣は責任を取って辞任してしまいます。政治の要請により立案された「官庁集中計画」は、鹿鳴館外交の挫折により規模を大幅に縮小されます。結局、仮議事堂・司法省・裁判所の三棟のみが建設された後、計画は中止となりました。
 官庁集中計画の一環として建築された「司法省 庁舎」は、関東大震災に対してはほとんど無傷で乗り越えましたが、第二次世界大戦で米軍の爆撃により、煉瓦造りの躯体と防火床の一部を残して焼失してしまいました。その後、1948(昭和23)年より復旧工事が行われ、外観を大きく変えながらも、新たに「法務省 本館」として利用されるようになりました。それから約40年、竣工から約100年が経過した1994年、復原工事により竣工当時の姿に戻りました。こうして、法務省にとって、そして霞が関の官庁街にとっても記念碑的な建築は当初の姿に戻ったのです。

明治時代の官庁に相応しいドイツ建築


撮影日:2014.05.30
 『法務省・赤れんが棟』では次のように記述されています。

 本庁舎を上から見るならば、ちょうどアルファベットのEの字をした凸凹をもっている。様式的には、建物の中央と両翼部が張り出し、列柱が外観に重厚さを加え、急傾斜の大屋根が威風を添えるネオ・バロック建築である。さらに大屋根には、ドーマー(屋根)窓、棟飾り、尖塔などによる優美な造形が施されている。

 建築されてから100年以上が経つ『法務省 旧本館』。いつまでも、「霞が関の華」として残っていてほしい建築です。

参考文献

法務省・赤れんが棟復原工事記録編集委員会(1996.01)『法務省・赤れんが棟』
藤森照信(1993.10)『日本の近代建築(上) ―幕末・明治篇―』
建設省大臣官房 建設省官庁営繕部建築課(1994.01)「歴史的建築物のリニューアル ―旧法務省本館の保存・改修―」『建築月報』