国内でもっとも有名な「赤煉瓦駅舎」
撮影:2012.09.29
東海道線や山手線、京浜東北線、そして新幹線などが乗り入れている東京駅。その丸ノ内口の駅舎は、2012年に創建当時の姿に復元されました。内部のドームも、そして外観も、まさに壮麗・雄大という言葉がピッタリ合うような建築です。2003年には重要文化財に指定されました。その美しさに、思わず立ち止まってしまう駅舎ですが、日本銀行と同じで写真撮影には規模が大きすぎて困る建築でもあります。
「帝都の玄関」と戦災
撮影:2013.07.08
時は明治20年代。東京の鉄道網は、東海道方面の起点である新橋駅、東北方面の起点である上野駅で分断状態にありました。そして、この両駅を連絡する鉄道の必要性が日に日に高まっていたのです。明治21年8月に東京府が「東京市区改正条例」を公布し、その中で新橋・上野の両停車場を結ぶ市内貫通高架線の建設が定められました。そして翌年には高架線に中央停車場を設置することが計画されました。この中央停車場が、のちの東京駅となります。
当初、この中央停車場はドイツ人技師フランツ・バルツァー(Franz Baltzer)が和洋折衷の駅舎を設計しました。バルツァーは日本の伝統様式を再評価する意図を持って設計したのですが、当時の政府や鉄道関係者には受け入れられませんでした。後に中央停車場の設計は辰野博士に依頼されます。
完成した駅舎は帝都の玄関にふさわしい雄大な建築となりました。時の総理大臣、大隈重信は「東京駅はあたかも光線を放散する太陽のごときものだ」と祝辞を述べています。それは、「旭日」(The Rising Sun)を意味するものであり、即ち、東京駅は近代日本の象徴そのものだったのです。
1923年の関東大震災ではほぼ無傷で乗り切るものの、1945年5月の米軍による無差別爆撃により被災します。耐火性能に優れた鉄骨煉瓦造の外観は残ったものの、屋根や内装はすべて焼失します。戦後の戦災復旧工事で3階建駅舎は2階建にされ、焼失した壮麗なドームも八角形の寄棟となりました。
戦後、数回にわたって東京駅の建て替えが計画されます。しかし、その度に財政難や保存運動により計画は頓挫します。
1999年、JR東日本の松田社長と東京都の石原都知事による対談の中で、東京駅の保存復原の方向性が決まりました。2012年に、外観は2階建から3階建へ、戦災で失われたドームも復原、ドーム内部の内装も写真や文献などで復元されました。長い年月をかけ、ついに、東京駅は、近代日本の象徴だった創建当初の姿に蘇ったのです。
いわゆる「辰野式フリー・クラシック」の雄大な駅舎
撮影:2013.07.08
東京駅の建築様式については、文献によりまちまちです。
まず「東京駅誕生」は次のように記述しています。
中央停車場の本屋建物は宮城を正面にあおぐ位置に設けられ、広大な駅前広場を擁していた。本屋建物はルネッサンス様式による鉄骨赤煉瓦造三階建で、建物正面長は三三五メートルもある壮大なものであった。
当時、辰野博士自身が「ルネサンス」と明言していることから、「ルネサンス様式」とする文献も少なからずあります。しかしながら、厳密に「ルネサンス式」と規定できるかと言えば、そうではないようです。
「東京駅はこうして誕生した」では建築様式について、次のように記述しています。
意匠(デザイン)は、辰野自身は「ルネーサンス」式といっているが、ビクトリアン様式やルネサンス様式、ある部分にはバロック風の装飾など中近世ヨーロッパのいくつかの建築様式を自在に取り入れたものとなっている。
藤森照信氏は「日本の近代建築(上)」で、
これらイギリス派の晩期を飾る作品は、赤煉瓦の表情を巧みに演出する点では初期のゴシック系と同じだが、スタイルはちがっている。 …(中略)… クラシックとゴシックの中間的な様式で、クイーンアン様式と呼ぶ。
また、重要文化財に指定されたときの文化庁の見解は次のようになっています。
南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で、中央棟の南北に両翼を長く延ばし、建設当初は、地上3階建であった。建築様式は、いわゆる辰野式フリー・クラシックの様式になる。
ゴシック様式、ルネサンス様式など、様々な様式を取り入れた折衷様式と考えるのが妥当でしょうか。
これからも東京の顔として、日本の玄関口としてふさわしい駅舎として残ってほしい建築です。