まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

迎賓館 赤坂離宮


撮影:2013.08.22

建築情報

旧称:東宮御所
旧称:赤坂離宮
用途:宮殿
設計:片山東熊(宮内省内匠寮)
竣工:1909年
備考:国宝

世界最後のヨーロッパ系宮廷建築


撮影:2013.08.22

撮影:2013.08.22
 四ツ谷駅を出て外濠通りを南に向かって進むと、樹木が整然と並ぶ道が見えてきます。一般の自動車は入れないよう封鎖されているその道路の先に、壮麗でスケールが大きい建築が見えてきます。しばしば、「世界最後のヨーロッパ系宮廷建築」とも紹介される、「迎賓館 赤坂離宮」です。普段は柵の向こう側でしか眺めることができませんが、それでも、何もかもを圧倒する美しさを感じることができます。

流転の最高傑作


撮影:2013.08.22
 明治21年、明治国家の象徴と言える「明治宮殿」が竣工されました。当初は洋風石造も検討されましたが、最終的には木造の、外観が京都御所を模した和風で内装は洋風という建築になりました。そのとき、別途洋風石造の建物を赤坂離宮地内に建設することが予定されました。これについて、「皇室建築 内匠寮の人と作品」で、このように紹介されています。

 このことは、明治天皇が洋館宮殿の必要性を、日本が近代国家へと歩んでいくための「時代の要請」として是認されていたことを示唆しています。

 奈良・京都の帝室博物館の竣工の後、いよいよ東宮御所の計画が動き始めます。明治31年宮内省東宮御所御造営局が設置され、技監に片山東熊博士が任命されます。工事だけでも十年もの歳月を費やしたのち、ついに完成します。

撮影:2013.08.22
 東宮御所として建設されたこの宮殿は、しかし使用されていた期間は短いものでした。竣工時、東宮殿下(後の大正天皇)はご都合により使用されることはなく、竣工後しばらくして当時の皇太子殿下(後の昭和天皇)が使用しましたが、それも一時期の話。国賓の宿泊施設にも使用されましたが、その例もわずか2例に留まります。そして、第二次世界大戦で数多くの焼夷弾の直撃に遭うも、必死の消火活動により焼失は免れました。
 戦後、皇室財産だった赤坂離宮は国に移管されます。部分的な改修がされながら、国立国会図書館裁判官弾劾裁判所、法務庁などに使用されます。
 転機が訪れるのは、池田内閣による迎賓館建設の動きです。当時、国賓・公賓の来日が増え、その接遇施設(迎賓館)を設ける必要が高まっていました。しかし、この時赤坂離宮は迎賓館施設の候補の一つに挙がっていましたが、建設省を中心に新築案に傾いていました。大勢が変わるのは佐藤内閣の時。赤坂離宮を改修し迎賓館とする方針が示されました。政府上層部としては、赤坂離宮の荒廃をこれ以上放置できず、一方で現状のまま保存修理するのでは施設として不十分なものとなり、大規模改修を行うことで迎賓館として利用することが望ましいと考えるようになったのです。建設省小場営繕局長および総理府高橋公文書館長の両名による、欧米各国の迎賓施設を視察を踏まえ、改修計画の方針が決定されます。そして昭和42年7月の閣議で「迎賓館は、旧赤坂離宮を改修してこれに充てる。」と正式に決定します。
「迎賓館」には、次のように記述されています。

 本館改修着工以来、五年有余の歳月と、総工費約百四億円(別館を含めて)を費やした迎賓館赤坂離宮は、言語に絶する困難を克服して、昭和四十九年三月三十一日無事改修を終えた。


撮影:2013.08.22
 東宮御所として建設され、世界でも最後期にあたる宮殿建築。片山博士の最高傑作であり、東京駅と並ぶ明治時代の代表的建築、赤坂離宮国賓を接遇する迎賓館として蘇ったのです。

伝統に則ったフランス・バロック様式


撮影:2013.05.05

撮影:2013.08.22
 赤坂離宮について、「皇室建築 内匠寮の人と作品」では次のように記述しています。

 東宮御所の外観の様式は、ルネッサンスに続くバロック期に現れたデザインが、端正に組み合わせており、仏国一八世紀末式と規定してしまうと、必ずしも正確な表現とはいえず、全体から言えば、一九世紀最末期のネオバロック様式(第二帝政様式)に位置づけられるものと考えられる。

 一方で、藤森照信氏は「日本の近代建築(上)」で次のように記述します。

 片山は、帝室博物館につづき赤坂離宮でも、バロック―ルイ一四世式―を求め、ネオバロック第二帝政式―は求めなかった。
(中略)
 かつてヨーロッパ諸国の宮廷建築家が繰り返しルイ一四世式に立ち向かったと同じように、自分も原点から直接学びたい、と考えたのだろう。それともうひとつ、フランス、ドイツの宮廷が消え、自分もその戴冠式に列席したロシアの王朝は最期の時を迎えつつあるというヨーロッパの大きな趨勢の中で、自分の仕事が世界の宮廷建築の締めくくりになるかもしれないという責任感があり、原点に帰ろうとしたのかもしれない。事実、赤坂離宮は世界における最後のヨーロッパ系宮廷建築となった。

 世界最後の宮殿建築は、様々な事情により翻弄されながらも、明治という時代の意気込みを今に伝える、壮大な建築です。

参考文献

浅羽英男ら(2005.12)『皇室建築 内匠寮の人と作品』
迎賓館(1975.3)『迎賓館』
迎賓館(1977.3)『迎賓館 赤坂離宮 改修記録』
藤森照信(1993.10)『日本の近代建築(上) ―幕末・明治篇―』