まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

皇居東御苑 二の丸庭園

庭園情報


撮影:2017.05.05

東京の中心に位置する庭園


撮影:2017.05.05
 東京メトロ大手町駅」から徒歩5分。まさに東京の中心ともいえる場所に、皇居東御苑があります。皇居東御苑は旧江戸城の本丸や二の丸、三の丸に相当する部分であり、皇室行事に支障のある場合を除き公開されています。一般的に「天守台」や「松の廊下跡」「富士見櫓」といった施設が有名ですが、ここに「二の丸庭園」という日本庭園があることは、意外と知られていないかもしれません。実際、昭和43年(1968)の一般公開まではほとんど顧みられず荒廃していた、いわば幻の庭園でもあったのです。

起源は小堀遠州


撮影:2017.05.05
 皇居東御苑の現地解説板には小堀遠州によってまずは造園され、三代将軍徳川家光の命により改修させられたと記しています。

 二の丸庭園
 江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当たり、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。

 寛永十二年(1635)に描かれた『寛永十二亥年二之御丸指図』の中に江戸時代初期(徳川家光公治世下)の頃の江戸城二の丸が描かれています。

寛永十二亥年二之御丸指図』東京国立博物館

寛永十二亥年二之御丸指図』東京国立博物館蔵(二の丸庭園部抜粋)
 この絵図は翌寛永十三年(1636)に改修された二の丸御殿の図面であると推定できます。気になるのは池泉の位置。多くのブログでは「二の丸庭園」の池泉の位置は変わっていないと紹介されています。しかし、現在の「皇居東御苑二の丸庭園」は『二之御丸指図』で描かれている位置と異なり、二の丸の東端部の空白辺りになります。空白部にも庭園が存在したのか、或いはその後に庭園を造園したのか、研究が待たれます。ちなみに、その後の絵図には現在の「二の丸庭園」の位置に「御庭」の文字が書き込まれ、その後の明治期の地図にも池泉の存在があることが分かります。

(2019.02.11 加筆開始)
 『寛永十二亥年二之御丸指図』以後の御殿については、飛田範夫氏の著作『江戸の庭園』に詳しく書かれています。それによると寛永十三年完成の御殿はしばらくして取り壊され、寛永二十年(1643)に新しい御殿と庭園が完成、世子竹千代君(後の四代将軍家綱公)の御殿となります。この庭園も小堀遠州が作庭を担当していますが、家光公は気に入らなかったのか、家臣に手直しを命じています。その後明暦三年(1657)の「明暦の大火」で御殿が焼失、越谷別殿を移築する際も庭園の改修が実施されています。
 二の丸庭園の大きな転機は五代将軍綱吉公の時代に訪れます。宝永元年に建て替えられた御殿は、従来の御殿よりも規模が大きくなった関係で、庭園の池があった場所にも御殿が建てられています。恐らくはこの時、一度庭園は埋められてしまったと推測できます。その後も度重なる火災による消失と再建を繰り返していく中で、現在残っている庭園が形作られていったと考えられます。
(2019.02.11 加筆終了)

 続いて、大政奉還、王政復古、東京奠都から間もない明治4年(1871)に撮影された「二の丸庭園」の写真が残されています。

『二丸池図』「旧江戸城写真帖」東京国立博物館
 この写真を見る限り、撮影された段階で既に庭園が酷く荒廃した状況であることが見て取れます。その後、手入れはされないものの、幸いにも埋め立て等で消失する事もありませんでした。

皇居移転・開放論の末に出来た「皇居東御苑」の一般公開

 二の丸庭園が蘇るのは、皇居そのものの在り方を巡る議論がきっかけでした。第二次世界大戦の敗戦後、戦災復興計画より「皇居移転・開放論」の主張が為されるようになります。この動きは徐々に大きなうねりとなっていきます。折しも、昭和29年(1954)1月の一般参賀において二重橋上で16名が亡くなる群衆事故が発生しました(報道機関及び政治家は「二重橋事件」と呼称していますが、痛ましい事故ではあるものの、事件性は少ないと考え当ブログでは群衆事故の表現を用います)。この群衆事故を受け、宮内庁では皇居参観の制限を緩和するようになるなど、宮殿再建と合わせて皇居の公開について検討を加速させます。
 宮殿再建が現実味を帯び始める昭和32年(1957)、丹下健三氏が皇居に関して次のような発言をしています。

 宮城ですがね。僕はあれを文化センターにしたいんだ。公園あり、美術館あり、図書館ありで、今の自然の武蔵野情緒も生かしながら、国民のものにね。

丹下健三藤森照信丹下健三』(新建築社、2002)345頁

 また、別の機会でも丹下氏は加納久朗住宅公団総裁との対談でも次のように紹介されています。

丹下:まず宮城を解放していただきたい。宮城のあの環境はなんとか残すこと、そうして宮城の周囲をもっと楽しいものにする。あのまわり全体を散歩すると、ちょうどシャンゼリゼぐらいの長さになりますが、そこにはショッピングもあれば、ビジネス・センターもあるということにして、一応宮城は原形通り残す。けれどもあそこを横断できるようにしたい。

(中略)

加納:それは私もそう思っているんです。あそこを開放して、十字に広い道路を通す。だいいち、あそこは天皇のお住いとしては決して良い場所ではないんですよ。このあいだ、空気の検査をしたんですが、宮城の中の空気はとても悪い。(略)あんなきたない所に天皇を置いておくなんて、国民としてはたいへん不忠なんだ。

丹下健三藤森照信丹下健三』(新建築社、2002)346頁

 数々の国家プロジェクトに携わる建築家の丹下健三氏と、華族出身で吉田茂内閣総理大臣とも繋がる人脈を有する加納久朗氏の提案は現実味があるとして注目されました。それ以前にも日本社会党から国会議論を通じて皇居移転・開放論が唱えられており、政治家・知識人の間で皇居移転・開放論広がりつつあったのです。一方で世論調査では皇居の現状維持が過半を占めていました。政府と宮内庁はこのような状況を踏まえ、皇居再建に関する有識者の審議会(皇居造営審議会)を立ち上げます。審議会での議論の末、皇居の現状維持と旧本丸地区(皇居東地区)の公開を旨とする答申を内閣に提出。この答申に基づき、以下の閣議決定がなされます。

皇居造営について
昭和35年1月29日 閣議決定

皇居造営に関し昭和三十四年十月八日付皇居造営審議会の答申の趣旨を尊重して次のように措置する。

(中略)

四、皇居東側地区は、皇居造営の実施に照応して皇居附属庭園として整備の上、宮中行事に支障のない限り原則として公開する。

 こうして様々な意見が飛び交った中で、最終的に「皇居東側地区」は皇居附属庭園「皇居東御苑」として国民に公開されるようになり、その過程で二の丸庭園も再整備を実施することになったのです。

武家らしくない、安らぎを感じる庭園

 皇居東御苑二の丸庭園を訪れると、意外と想像よりも小さい庭園であることに気づきます。しかし、小さいながらも、どこか安らぎを感じることができる不思議な庭園です。

菖蒲田


撮影:2017.05.05
 皇居東御苑二の丸庭園のほとりにある菖蒲田です。一般公開へ向けて再整備中に明治神宮御苑の菖蒲田から株を譲り受けて造成されています。品種は90種、約160株あるそうで、5月下旬から6月いっぱいまで咲き続けます。

中島の洲浜と雪見灯籠


撮影:2017.05.05
 中島には洲浜があります。旧芝離宮恩賜庭園のように大きさを揃えた石を並べて固めることが多いですが、皇居東御苑二の丸庭園の洲浜は非常に自然的な表現をしており、新鮮です。雪見灯籠も周囲の景色とよく調和しているように見えます。
 なお、雪見灯籠ですが、先述の明治初期の古写真にもその存在が確認できます。

『二丸池図』「旧江戸城写真帖」東京国立博物館蔵(雪見灯籠部を拡大)

中島


撮影:2015.05.05
 旧芝離宮恩賜庭園清澄庭園のような石組はほとんどありません。庭園の南側から中島を見ると、ほとんど石組が無いことに気づきます。


撮影:2015.05.05
 一方、中島の洲浜の対岸からみると多少の石組が確認できますが、全体的には非常に抑え気味です。派手な石組を用いていないため、非常におとなしいという印象を受けたりします

大名庭園か、宮廷庭園か

宮内庁庭園課に所属していた平馬正氏は「日本の宮廷庭園」で次のように記しています。

 皇居東御苑は、もともと江戸城のあった所で、太田道灌を経て徳川家康の時代に築城が始まり、十五代将軍慶喜まで、大名の造った城郭の中で政治が行われてきました。ですから城内に幾つかあった日本庭園も大名庭園という分類になります。しかし、明治維新以後は、京都から明治天皇が西の丸御殿に入られて皇居となり、石垣やお濠に囲まれた戦略的な構造である砦の中に、宮殿や皇室関係の施設が造られて、二者が混合する姿となりました。
 (中略)
 二の丸庭園はもともと徳川将軍の別荘的な使われ方をしていた所で、加えて日本庭園のある部分は、昭和四十三年の東御苑の公開に伴い、徳川九代将軍家重時代の絵図を元に復元された庭園であります。その後、昭和五十八年に昭和天皇のご発意で武蔵野林が造成され、現在では両陛下の朝のご散策にもご利用されているので、私は宮廷庭園と考えます。

 同じ徳川将軍家ゆかりの庭園で小堀遠州によって造園・改修された二条城二の丸庭園と比較しても、非常に穏やかな印象を受ける庭園に感じられます。平馬正氏の説明にもあるように、最初期の二の丸御殿は徳川将軍家にとっての娯楽・遊興の特色が強い、いわば別荘的な存在だったと言えます。しかし、比較的早期にこの御殿は取り壊され、本丸御殿を簡略化した御殿が造られます。この御殿は当初、将軍家世嗣の為に造営されたもので、その後は大御所や将軍生母、側室等が住んでいました。だからでしょうか、政治の争いから逃れられるように、どこか安らぎを見出せそうな雰囲気がここにはあります。

参考文献

飛田範夫(2009.8)『江戸の庭園』
平馬正(2007.6)「日本の宮廷庭園」『東京人』Vol.22(7)
丹下健三藤森照信(2002.11)『丹下健三
河西秀哉(2015.11)『皇居の近現代史
平馬正(2009.9)『皇居の四季・花物語
東京国立博物館 研究情報アーカイブズ」http://webarchives.tnm.jp/
国立国会図書館リサーチ・ナビ」http://rnavi.ndl.go.jp