維新後の地図で見る変遷
当ブログ「肥後細川庭園 【歴史編①】」では江戸時代までの歴史を確認しました。今回はその後の歴史について確認します。
明治維新により、日本は近代国家の道を歩み始めます。地図についてもこれまでの絵図から実測図へ変化していきます。肥後細川庭園の部分がよくわかる地図は大日本帝国陸軍が作成に関わった実測図です。作成された地図は下記の通りになっています。
1. 明治16年(1883)測量「東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍」
最初の地図は、参謀本部陸軍部測量局が明治17年(1884)に発行した『五千分一東京図測量原図』です。このうち「東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍」の地図は明治16年(1883)に測量されています。この地図からは、次のことがわかります。
目白通り沿いの土地が桑畑、茶畑となっているのは、東京府が推進した「桑茶政策」によるものと考えられます。
また、神田川沿いの敷地に建物が残っていることから、この部分は江戸時代以来からの建築が残されていたと考えられます。
現在の肥後細川庭園の池泉と比べ、中池・小池がありません。判別しづらいですが、「水」と書かれているようにも見えます。「水」であれば、この場所には水田があったと考えられます。
2. 明治42年(1909)測量「早稲田」
次の地図は大日本帝国陸地測量部が明治43年(1910)に発行した『一万分一東京近傍地形図』です。このうち「早稲田」の地図は明治42年(1906)に測量されています。この地図からは次のことがわかります。
目白通り沿いの建物は、細川侯爵家の邸宅として明治26年(1892)に建設された洋館・日本館と考えられます。邸宅の設計者、木子清敬の図面を保有している東京都立図書館では、次のような記述があります。
細川邸日本館は、明治25年(1892)から26年にかけて、細川護久侯爵が小石川区老松町(現文京区目白台)の旧下屋敷に建設した邸宅である。日本館は木子清敬が本格的な書院造で設計し、洋館は同じく宮内省の技師であった片山東熊が設計した。
東京都立図書館「5.細川邸日本館平面図」『第22回 木子文庫の建築関係史料』(2019.04.13 閲覧)
この記述から、次のようなことがわかります。
邸宅の設計者は、明治宮殿を設計した木子清敬氏、赤坂離宮(現迎賓館赤坂離宮)を設計した片山東熊氏であり、非常に豪華な面々でした。
邸宅の竣工に合わせてか、神田川沿いの建物は明治16年(1883)時点と比較して小規模となっています。邸宅の機能が目白通り沿いへ移動したと推定されます。
一方、池泉では中池が存在するようになりました。恐らく、小規模化した神田川沿いの建物に合わせた改修が行われたと推定されます。
3. 昭和5年(1930)測図・同12年(1937)修正測図「早稲田」
次の地図は昭和12年(1937)に修正測図された地図です。この地図からは次のことがわかります。
大正12年(1923)に発生した関東大震災により、明治期に建設された細川侯爵邸は焼失してしまいます。このため、細川侯爵邸があった場所は空白となっています。なお、修正測図が行われた前年に新しい細川侯爵邸が建設されています。当該の図面にもそれらしき建物が描かれています(上図の高田老松「町」の右横あたり)。
神田川沿いの建物も形状が変化しています。この建物こそが、現在の松聲閣と思われます。なお、この松聲閣については、関東大震災で焼失した細川侯爵邸の日本館の一部といわれています。さきほど紹介した東京都立図書館が次のように述べています。
400坪あまりあった日本館のうち、二階家が下屋敷のあった現在の新江戸川公園に残り、表書院・小座敷など3棟が世田谷区北烏山の幸龍寺に、広間・台所が杉並区真盛寺に移築されている。
東京都立図書館「5.細川邸日本館平面図」『第22回 木子文庫の建築関係史料』(2019.04.13 閲覧)
一方、文京区が配布しているパンフレット「松聲閣」では、次のように記述しています。
明治20年頃 細川家の勉強所として松聲閣が置かれたものと考えられる。
明治25~26年 細川家、広大な敷地の台地上(現・目白台運動公園の位置)に本邸を建設。
文京区『松聲閣』(2019.03.31 配布)
上記2点の文献から、次のことがわかります。
- 東京都立図書館では、松聲閣は細川侯爵邸・日本館の二階家が移築されたものとしている。
- 文京区は、記述の前後関係から、細川侯爵邸の建設前に松聲閣が置かれたと推定している。(ただし、「建設」という字を使用していない)
明治42年測図と昭和12年修正測図の地図を比較すると、建物の形状が異なっています。このことから東京都立図書館の記述がより正確ではないかと考えられます。いずれにしても、更なる研究が待たれます。
明治維新の後も、当地を保有し続けた細川侯爵家。しかし、さきほど紹介した昭和12年の地図が発行されてまもなく、当地のほとんどを手放すことになります。
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