建築・庭園情報
大正天皇、昭和天皇、そして上皇陛下ゆかりの御用邸
日光東照宮、輪王寺からほど近い場所に、日光田母沢御用邸記念公園があります。ここは、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)の御静養地として造営された御用邸で、大正天皇、昭和天皇、そして現在の上皇陛下の三代にわたってご利用されました。どことなく穏やかで雅な雰囲気の漂う御用邸です。敗戦後は栃木県が所有し、宿泊施設や博物館として活用された後、平成12年(2000)に「日光田母沢御用邸記念公園」として開園、平成15年(2003)には国の重要文化財に指定されました。
訪問当日の様子は下記のページでも掲載していますので、よろしければご参照ください。
本邸の様子
日光田母沢御用邸の本邸は、明治期に当地で建築された実業家・小林年保氏の別邸に、天保十一年(1840)造営の紀州徳川家江戸中屋敷と明治期造営の赤坂離宮・花御殿からの移築、そして明治32年(1899)の御用邸造営時に新築、明治期~大正期にかけて増築された建築物で構成されています。時代、背景とも異なる建築物で構成されていながら、違和感なく調和されているのは、木子清敬氏をはじめとする宮内省内匠寮の卓越した手腕によるものです。
御車寄
御車寄は、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)の花御殿(東宮御所)の玄関として明治22年(1889)に増築されました。屋根は昭和初期に杮葺きから銅板に葺き替えられています*1。
表御食堂
表御食堂は、大正期の大規模増改築で出来た部屋です*2。この部屋では賓客や臣下に御陪食を賜う等、饗宴に使用されました。床は洋風(欅の寄せ木貼り)、壁と天井が和風(鳥の子紙の張付壁と桧の猿頬天井)の和洋折衷洋式の造りとなっています*3。
御玉突所
御玉突所は、表御食堂と同様大正期の大規模増改築で出来た部屋です*4。皇室では、明治時代初期から外国の賓客との交遊のため、ビリヤードを嗜んでおられました。ビリヤード台やキュー、ソファー、シャンデリアは古写真などを参考に復原しています*5。
謁見所
謁見所は、天皇陛下が御滞在中に公式の謁見を行っていた部屋です。床の間と天井は書院造りとしながら、畳敷きの上に英国製の絨毯を敷いた和洋折衷の造りとなっています*6。こちらも大正期の大規模増改築で造られました*7。
御学問所
御学問所は、天保十一年(1840)創建で、紀州徳川家中屋敷を由緒に持つ部屋です。田母沢に移築される前に増改築され、現在の広さとなっています*8。他の部屋とは明らかに雰囲気が異なるのが印象的な部屋です。
劒璽の間
御学問所から二階に上がると劒璽の間があります。劒璽の間は、三種の神器の内、剣と勾玉を奉安する部屋です*9。
御寝室
御寝室は、赤坂仮皇居時代に次の間との間仕切りを取り払い絨毯を敷いて広間として使用されました。田母沢移築時に間仕切りが再び設けられ、嘉仁親王殿下の御寝室として使われました*10。
御日拝所
御日拝所は、皇居内宮中三殿に向かって遥拝された部屋です。通常、内部は公開されていませんが、期間限定で特別公開されていることがあります。ここも紀州徳川家中屋敷を由緒に持つ部屋で、他の部屋と同様、菊花御紋の錺金物の下には三つ葉葵紋が隠されています*11。
御座所
御座所は、天皇陛下が日常的な公務をお執りになる部屋です。この部屋も紀州徳川家中屋敷の由緒を持ちます。紀州徳川家中屋敷時代は「御小座敷」と称され、絵図から広間の茶室として使用されていたことが分っています。また、赤坂仮皇居時代の約16年間は表御座所として使用されていました*12。
御食堂と御次の間
奥の御食堂は、天皇皇后両陛下が日常生活での食堂として使用されたお部屋です。また、手前の御次の間はお付きの方々が両陛下の食事のお世話をされていた部屋でした。御食堂は明治22年(1889)、御次の間は明治6年(1873)に増築されています*13。
皇后御座所・皇后御寝室
皇后御座所や皇后御寝室などがある皇后宮は、元々当地にあった実業家・小林年保氏の別邸を転用したもの。特筆すべきは照明器具で、シェードの赤色がなんとも華やかで優しい印象を与えます。この赤色は金を溶融して発色しているようです*14。なお、上皇陛下は昭和19年(1944)7月からの約1年間、この皇后宮で疎開生活をされていました*15。
高等女官部屋
高等女官部屋は、明治33年(1900)~大正6年(1917)に増築された部屋で、一部は研修施設として活用されています。*16。部屋からの眺めは自然を感じることができ、なにか落ち着きますね。
内謁見所
内謁見所は皇后陛下の謁見に使用された部屋で、大正期の大規模増築によって造られました*17。
中坪
複雑に入り組んだ本邸には大小13か所の中坪が設けられています*18。
庭園の様子
庭園は小林家別邸の庭園「田母沢園」を宮内省内匠寮の小平義近氏により改造されました*19。
芝庭
日光田母沢御用邸の庭園は、小平義近氏が多く手掛けた明るい芝庭が大部分を構成しています。氏は元来、洋館と和館が併存する中で、それらを調和する芝庭の庭園を作庭してきました。今回の日光田母沢御用邸は全て和館ですが、今まで培ってきた実績から、曲線の園路に広い芝庭を主体とした庭園を作庭しています*20。
流れ
明治期の庭園らしく、園内には流れが作られています。比較的長い流れであるため、様々な場所で様々な表情を見せる、まるで自然にある小川のような景観です。
滝
園内には小規模ながら滝も設けられています。
池
小林家別邸「田母沢園」時代にも池がありましたが、御用邸整備時に縮小されました*21。小規模な池に小ぶりな石灯籠、岩島がより優美さを強調されています。なお、本邸の謁見所からは玉座から窓越しにこの池が見えるように作庭されています。
枯滝
流れを渡ってさらに南側の一角に、枯滝の石組が残されています。特に解説などは無いですが、当初は水が流れていたようにも思えます。
防空壕
庭園内には複数の防空壕への入口が設けられています。先述の通り、第二次世界大戦時、日光田母沢御用邸は皇太子明仁親王殿下(現在の上皇陛下)の疎開先であったことから、米軍の空襲に備えていたことが伺えます。穏やかで雅な空間が広がる中、突如、現実が顔を出すようで、ドキリとしてしまいます。
日光田母沢御用邸記念公園は、各地に建設された御用邸の中でも全体が残る貴重な遺構です。武家とは異なる、皇室独自の雅な雰囲気を味わうことができる空間でした。一方で、かつての防空壕が残されている所は、空襲へ備えが日常にあった時代を感じることもできる、稀有な施設であるとも感じました。
*1:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p3
*2:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p2
*3:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p12
*4:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p2
*5:日光田母沢御用邸記念公園『現地解説板』(2022.08.13 閲覧)
*6:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p14
*7:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p2
*8:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p17
*9:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p20
*10:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p20
*11:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p22
*12:日光田母沢御用邸記念公園『現地解説板』(2022.08.13 閲覧)
*13:日光田母沢御用邸記念公園『現地解説板』(2022.08.13 閲覧)
*14:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p25
*15:日光田母沢御用邸記念公園『現地解説板』(2022.08.13 閲覧)
*16:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p2
*17:社団法人日本公園緑地協会(1992)『日光田母沢御用邸記念公園』p27
*18:松沢真美(2021.08.07)「間近で感じる皇室文化 日光田母沢御用邸の謁見所初公開」『産経新聞』https://www.sankei.com/article/20210807-A3TDACXLWFMFHOMIDMRSOMYGZQ/(2023.01.09 参照)
*19:粟野隆(2008)「近代的庭園デザイナー・小平義近とその作品」『日本庭園学会誌』p69
*20:粟野隆(2008)「近代的庭園デザイナー・小平義近とその作品」『日本庭園学会誌』p66-69
*21:粟野隆(2008)「近代的庭園デザイナー・小平義近とその作品」『日本庭園学会誌』p69