まだ知らぬ、日本を訪ねて

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横網町公園【訪問編②】~鐘楼~

横網町公園 鐘楼  撮影:2023.08.23

建築情報

日華友好の象徴として

 横網町公園の正門左側付近に幽冥鐘とそれを吊るための鐘楼が設置されています。この幽冥鐘は、関東大震災の一報を聞いた中国仏教界が各地で法要を開催した後、10万人ともされる犠牲者を供養するために鋳造し、日本仏教連合会に寄贈した弔霊鐘です。日華友好の象徴といえる幽冥鐘と鐘楼は、現在も静かに横網町公園に鎮座しています。

建築の様子

 横網町公園の鐘楼は、規模は小さいながらも、その存在は震災直後の日華友好の歴史を物語る、重要な施設です。

幽冥鐘

 幽冥鐘は、中国仏教界が関東大震災の犠牲者を供養するために造営し寄贈した弔霊鐘です。震災後、被災地の悲惨な状況が中国に伝わった後、仏教普済日災会が組織され、中国四大仏教名山である五台山、峨眉山九華山普陀山の四大霊場で四十九日にわたって水陸普利道場と称する大法要を行いました。また、その動きに賛同した中国の各寺院でも誦経念仏が行われています。そして、仏教普済日災会は各方面の回向が終わった後、幽冥鐘を鋳造して寄贈することを日本の外務大臣及び日本仏教連合会の申し出たのです。日本仏教連合会も幽冥鐘の寄贈を喜んで受領したいと回答し、横網町公園に安置されることになりました*3

横網町公園 幽冥鐘  撮影:2023.08.23

鐘楼

 幽冥鐘の寄贈の打診を受けた日本仏教連合会は、横網町公園に安置することが適切であると考え、東京震災記念事業協会に寄贈状を提出。これを受け、東京震災記念事業協会は鐘楼の建設に着手しました。鐘楼の建設にあたっては、対応を誤ると国際問題にもなりかねない為、時には政府も関与しながら慎重に対応しています。鐘楼の設計は伊東忠太博士によるもので、同氏が設計した震災記念堂(現・東京都慰霊堂)とデザインが調和されるように設計されました*4。屋根の上には、龍と思われる像が取り付けられており、伊東忠太博士らしい建築です。

横網町公園 鐘楼  撮影:2020.09.19

 鐘楼完成後、梵鐘始撞式が開催され、関係した日華関係者が招かれました。この式典での祝辞で中華民国特命全権公使は、幽冥鐘の鐘声を聞いて日華両国の親睦の誼を増進することを望むことを述べています*5

(前略)

 由來貴我兩國民間ニ屢々誤󠄁解アリテ時ニ感情󠄁ノ背馳ヲ見ルト雖モ上述󠄁ノ如キ危難ニ遭遇シテハ自然ニソノ障壁ヲ去リ一致團結シテ患難ヲ相共ニスルモノナルコト震災當時ニ於ケルカ如クコレ兄弟自然の情󠄁ニシテ殊ニ我カ東洋民族ノ德性ナリサレハ今後我々ハコノ鐘聲ヲ聞キテハ自ラソノ同文同種ノ愛ヲ喚起󠄁シ以テ益々親睦ノ誼ヲ增進スヘクコレ余ノ切望󠄁スル所󠄁ナリ

 一言蕪詞ヲ述ヘテ祝辭トナス

中華民國十九年十月一日

中華民國特命全權公使 汪 榮 寶

(一部新字体を使用)

東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p175

 日華友好の象徴ともいえる鐘楼が竣工してからわずか7年後の昭和12年(1937)、北支事変が勃発します。その後、北支事変は日中戦争第二次世界大戦へと拡大、結果的に日本は第二次世界大戦で敗北し滅亡寸前にまで追い詰められ、中華民国はその後の国共内戦に敗北し台湾に逃れることになります。この鐘楼は、その後の歴史を知る者にとって、国際関係はそう単純な物ではないという、複雑な感情を思い起こさせる存在です。

*1:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p169

*2:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p168

*3:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp163-167

*4:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp168-171

*5:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p175