はじめに
この記事を、100年前、我が国の有史史上最悪とも呼ばれる自然災害に直面した、全ての人々に捧げます。
前回の記事は横網町公園の歴史について紹介していきました。ここからは、横網町公園の整備方針に深い関係がある関東大震災に焦点を当てたいと思います。
今までの記事で述べた通り、横網町公園が整備される前、被服廠跡と呼ばれた更地に避難していた約38,000人もの人々が火災により亡くなっています。なぜこれほどまでに甚大な被害となってしまったのか、調べられる範囲で確認していきたいと思います。
関東大震災の概要
揺れ続けた東京
大正12年(1923)9月1日午前11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生。この地震により、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で最大震度6の揺れ(現在の階級では震度7相当と推定)が観測されました。また、本震直後の5分間にマグニチュード7以上の余震が2回、翌日までに5回発生し、東京、横浜は甚大な被害を受けます。また、お昼の時間帯での発生であったため、昼食の準備をしていた家庭からの火災が各地で発生、能登半島付近にあった台風による影響で強風が吹いていた東京市は火の勢いを増していき、東京市の市域の4割以上が焼失する事態となりました*1。
関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災の比較
近代以降で発生した三大震災(関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災)の死者数を下記の図に表します。
関東大震災では、他の震災と比較しても、死者・行方不明者数が圧倒的に多い事実が浮かび上がります。また、関東大震災の特徴として、犠牲者の死因の9割近くが焼死だったと推定されています*2。
関東大震災における東京市各区別の被害の比較
次に東京市での各区ごとの死者数の比較をします。各区で比較すると、本所区(現・墨田区)の死者数が48,493名を数え、東京市全体の死者数(58,420名)の8割以上を占め、他区よりも圧倒的に多いことが分かります*3。なお、この本所区の死者数は、東日本大震災の全体の死者数をも大きく上回るものです。
被服廠跡の惨劇
関東大震災発生時、両国地区において、避難先として考えられそうな場所は安田家本邸、旧安田家邸(後の旧安田庭園)、そして陸軍被服廠跡となります。
この被服廠跡は、横網町公園の整備前で更地だったことから約4万人とも言われる人々が避難してきました。避難誘導に当たった警察の注意喚起も空しく、避難民は家財道具を大八車に乗せて避難する者も多数いたようです。その後、折からの強風の影響で火災旋風が発生、被服廠跡に襲来します。また四方からの飛び火によって家財道具に燃え移ることで、被服廠跡は文字通り地獄絵図の様相を呈します。被服廠跡に避難していた約4万人とも言われる人々のうち、約3万8,000人の方が焼死しました。横網町公園の東京都復興記念館には、火災旋風の凄まじさを象徴するものとして、被服廠跡に隣接する安田家本邸跡で発見された、樹木に巻き付けられたトタン板が展示されています。
大火における公園・庭園の効果
先述のように、東京市内は市域の4割以上が焼失するという壊滅的被害を受けます。一方で、当時の東京市内に点在していた公園や庭園が防火帯の役割を担い、延焼を防いだことも分かりました。復興事務局がまとめた『帝都復興事業誌:公園篇』には次のような記述があります*4。
第二節 震災に於ける東京及橫濱公園の効果被害
(前略)
而して此處に注目すべきは、公園、廣場、庭園、河川等が防火壁となつて、猛火を防いだ事である。公園廣場等の防火壁帶が無ければ恐らくより以上の焼土と化したのであらう。卽ち全市六割の區域が焼失を免れたのは、一には公園、廣場等の効果が預かつて力あつたと謂ふべきである。
之を焼失區域境界線に依り調査すると、西南部は、芝區の濱離宮、舊芝離宮庭園より古川に沿ひ、芝公園等の一帶を境とし、之より北へ愛宕山公園、虎の門公園、東伏見宮家庭園、日比谷公園、宮城前廣場、内濠に沿ひ牛ヶ淵公園、富士見町公園等を一帶として防火壁を形成し、又、麴町公園、閑院宮家庭園、有栖川宮家庭園、鍋島候庭の爲め永田町附近の類焼を免かれ、尚小石川區方面は外濠及後樂園等で防ぎ、本郷區、下谷方面では湯島公園、岩崎家庭園及上野公園を一連帶として防火の効果を現はし、實に大火災に對し公園及庭園の植樹帶が防火壁となつた事實を物語るものである。
尚、局部的に効果のあつたのは、淺草公園の四圍が大火に包まれたのに、獨り傳法院、淺草寺、觀音堂、仁王門(特別保護建築物)の類焼を免れたのは、淺草公園及傳法院に於ける庭園の植樹帶が防火壁となつたがためで、淺草區向柳原町に於ける松浦伯邸の庭園蓬萊園、又深川區淸澄町に於ける岩崎家の淸澄庭園等が共に焼失を免れたのは又此植樹帶の價値を示したものである。
(一部新字体を使用)
復興事務局(1931)『帝都復興事業誌:公園篇』p6-7
復興事務局の記述を震災予防調査会がまとめた『東京市火災動態地圖』と重ね合わせて確認すると、次のようになります。
こうしてみると、「点在」という状態とはいえ、東京市西部において緑地帯が充実していた一方で、東京市東部には目立った緑地帯が少なかったことが分かります。
運命を分けた東京市東部の避難場所の特徴
緑地帯が少ない東京市の江東地区(本所区、深川区)において、特に主要な避難場所となったのは陸軍被服廠跡と岩崎男爵家深川別邸です。先行研究も参考にして、農商務省山林局の技師による震災後の公園等の樹木の被害状況を調査報告に基づき、敷地面積、樹木数を下記に示します。
陸軍被服廠跡(現・横網町公園など)
陸軍被服廠跡の特徴は、樹林地がほとんど無い更地だった点です。一見、避難場所として最適のように見えますが、避難者が持ち込んだ可燃物である家財道具が、周囲の火災による飛び火によって燃え広がり、火災旋風の襲来もあって結果的に38,000人もの人々が焼死しました。
岩崎男爵家深川別邸(現・清澄庭園)
- 岩崎男爵家深川別邸(現・清澄庭園)
一方、深川区(現・江東区)の岩崎男爵家深川別邸(現・清澄庭園)は周囲を土塀と高木で囲まれていたため、建築物は焼失し、樹木も7割焼滅するものの、大池泉に逃げ込んだ20,000名もの人々が生き延びることができました*16*17。現在でも、関東大震災、そして戦災において焼失を免れた「涼亭」が、清澄庭園を見守り続けています。
この対照的な結果が知られたことから、樹木と池泉がある日本庭園に当時予想外の防火力、防災力があることに人々が気づき、横網町公園に日本庭園を造園することになったのです。また、都市の防災力の向上を図るため、東京市東部においては震災復興公園(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)が整備されることになりました。
次の100年に向けた教訓
関東大震災から100年、当時と比べ建築物は耐震耐火構造になったものも多くなり、消防技術も格段に向上しています。しかしながら、阪神・淡路大震災では、耐震建築と思われたビルや高速道路が倒壊し、火災も多く発生しました。関東大震災では避難せず火災を見る被災者が映像に残されていますが、東日本大震災では津波から逃げ遅れるという事例も報告されています。近年では、糸魚川において大規模火災が発生する事例もありました。東京都内においても木造住宅が密集している地域が多く残っています。当ブログの旧安田庭園の記事でも述べましたが、日本庭園が持つ避難場所としての役割を今一度、再認識することも大事なのではないか、そう感じながら今回の調査を終えました。
*1:気象庁『「関東大震災から100年」特設サイト』https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/1923_09_01_kantoujishin/gaiyo.html(2023.08.31 参照)
*2:内閣府『「関東大震災100年」特設ページ』https://www.bousai.go.jp/kantou100/(2023.08.31 参照)
*3:震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』pp231-232
*4:復興事務局(1931)『帝都復興事業誌:公園篇』pp6-7
*5:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p82
*6:陸軍被服廠跡の敷地面積は、『被服廠跡』の「二萬四百三十坪餘」を㎡に換算していますが、『林業試驗彙報』では12,000坪(約40,000㎡)としています。今回は比較的正確であろう、『被服廠跡』の数値を記載します。
*7:福嶋司(1995)「植物の防火機能と避難緑地のあり方について」『都市公園』No.129 p8
*8:河田杰、柳田由藏「火災ト樹林竝樹木トノ關係」『林業試驗彙報』特別號 p27,p30
*9:福嶋司(1995)「植物の防火機能と避難緑地のあり方について」『都市公園』No.129 p8
*10:河田杰、柳田由藏「火災ト樹林竝樹木トノ關係」『林業試驗彙報』特別號 p27,p30
*11:田中八百八(1923)『大正の大地震及大火と帝都の樹園』p8
*12:岩崎男爵家深川別邸の敷地面積は、田中(1923)の調査結果を引用し㎡に換算していますが、現在の清澄庭園(清澄公園含む)の面積は81,091㎡であり、三菱グループのウェブサイトでは購入当初の敷地面積を3万坪(100,000㎡)と紹介されているため、実際は現在と同程度(約81,000㎡)以上と推定されます。
*13:田中八百八(1923)『大正の大地震及大火と帝都の樹園』p8
*14:田中八百八(1923)『大正の大地震及大火と帝都の樹園』p8
*15:河田杰、柳田由藏「火災ト樹林竝樹木トノ關係」『林業試驗彙報』特別號 p27,p30