まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

横網町公園【人物編】〜本所相生警察署〜

本所相生署の一番長い日

横網町公園 東京都復興記念館 警察手帳  撮影:2023.08.23

 東京都復興記念館に展示されている警察手帳。陸軍被服廠跡で発見された身元不明の焼死体にあったものです。この手帳により、焼死体は河本巡査部長であることが判明しました。

 関東大震災が発生した日、その始まりは、いつもと変わらない日常から始まっています。今回は震災時、本所相生警察署の動きを複数の文献から追うことで、関東大震災の過酷さを追体験しようと思います。

震災直前 それはいつもの日常だった

始業 朝の訓授

 大正12年(1923)9月1日。月初にあたるこの日、本所相生警察署では、署長である山内氏が署員に対して『向上心と運命』と題した訓授が行われます*1

  九月一日 土曜日

 訓授  向上心と運命

 (前略)

少なく共現在より一歩進めば、それでよいのである、お互に何事も眞面目にやると云ふ事、しつかりした意思を持つと云ふことを心掛けて自已の運命を開拓するの運命を作り以て社會の進歩發達に貢献しなければならんと思ふ。

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日本警察新聞(1923)「震災血涙史『山内相生署長の訓授』」『日本警察新聞』No.585 p5

午前9:00 府議会議員選挙取締に関する打ち合わせ

 山内署長はその日の午前9時から、相生署3階で行われた府議会議員選挙の取締に関する打合せに出席していました*2

其日署長は丁度府議會議員選擧取締に關する打合せの爲め午前九時から同署三階樓上に原庭、太平向島各組合署員の會合が開かれ(後略)

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p106

震災発生 崩れゆく日常

午前11:58 地震発生

 午前11時58分、強烈な揺れを感じた本所相生警察署では、バルコニーから管内の状況を確認、被害が認められることから非番署員の非常招集をかけ、各派出所に署員を派遣します。13時頃には、早めに到着した署員と調査する体制が整いました*3*4*5

地震が起るや山内署長はバルコニーに立出で管内の被害狀況を望むと共に直に有馬警部補に命し非番員を召集して之を各派出所に配置した

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p106

九月一日「中略」正午强烈ナル地震起リ、屋上「バルコニー」ヨリ望観スルニ、管内ニ於テモ多數ノ被害ヲ認メタルヲ以テ、直チニ有馬警部補ヲシテ非番員ヲ召集セシメ之ヲ各派出所區内ニ派遣シ、早着署員ヲ以テ調査ノ配置ヲ了シタルハ午後一時ナリ。

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震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p239

渡邊巡查談

震災偶發の日が私の非番當日の日であつた私が柔道を濟まして署の道場を出るときあの大地震が來た、(中略)署長は直に、命令して非番員全部を召集して、倒壞家屋の調查と一方には消火の方に任せしめた。

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日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

午後1:30 管内視察

 バルコニーからの観察から、午後1時30分においても、まだ相生署管内で火災は確認されていません*6。そのため、山内署長は震災並びに火災の状況を視察することを目的に相生署を出発しました。

 猶「バルコニー」ニ於テ望見スルニ、先ヅ第一火ヲ見タルハ深川安宅町方面ニシテ、次ニハ淺草橋附近、淺草千束町、本所錦糸町日本橋等ナリ、午後一時三十分頃ニハ未ダ管内ノ發火ヲ見ズ

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震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p239

此の時火の手は既に深川安宅町、淺草橋附近、淺草千束町、本所錦絲町及び日本橋其他から揚つてゐたが未だ管内は幸ひに無事を得たので署長は震災並に火災狀況視察の爲め管内一巡の目的で署を出動した

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』pp106-107

午後2:00 激化する火災

 署長の視察中、周囲の火災の状況は刻一刻と激化し、ついに相生署管内にも火災が発生します。

時に二時四萬の生靈を奪つた呪はしき火は深川方面の火熖を受けて先づ管内花町附近に最初の黑煙を揚げた 續いて淺草橋方面の飛火を受けて石原町に發火を見國技館附近に新しき火の手を望んだ時には林町附近はもう火の海と化してゐた

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p106

午後2:50 視察終了、庁舎から避難開始

相生署の焼跡(警視庁(1925)『大正大震火災誌』p1168より引用)

 相生署では、管内で火災が激化した場合、両国橋を渡って上野または日比谷方面に避難者を誘導する案が検討されていました*7。視察中に相生署管内の火災が深刻化する中、山内署長は午後2時50分に視察を終了し、急ぎ相生署に引き返します。そして火の手が迫る相生署構内に避難していた約千人もの人々に対して両国橋方面に避難をすすめ、署内にいた囚人13名を釈放、署員にも被服廠跡側にある鉄筋コンクリート造りの巡査合宿所(現在でいう、独身寮のような存在か*8)に避難するよう命じ、署内の重要書類も被服廠跡に搬出されました*9*10。震災予防調査会の火災動態図によると午後4時頃に相生署も炎に包まれることになります*11

 震災ト共ニ本所・深川方面ニハ所󠄁在火ヲ失スルモノ多ク、管内ハ其風下ニ位シタレバ、萬一ノ場合ニハ兩國橋ヲ渡リテ、上野又ハ日比谷方面ニ避難者ヲ誘導スル事ノ至當ナルヲ思ヒ、其策ヲ案スル

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警視庁(1925)『大正大震火災誌』p1169

二時五十分管内の視察が終つて急遽引返した署長はその時同署構内に避難してゐた約一千人に向ひ危險と見て兩國橋方面へ退却□すゝめ同時に囚人十三名を釋放して在署員に對し橫網町被服廠側なる鐵筋コンクリート築造の巡査合宿所に避難を命じた山内署長原警部等二十名もそれに次で同所へ難を避けた

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

然ルニ深川方面ノ火焰を受ケ先ヅ第一ニ大火災ヲ起シタルハ花町附近ナリ、次ニ淺草橋方面ノ飛火ヲ受ケ、原庭管内石原町方面ノ發火ヲ見、間モナク國技館附近ニ飛火ニ非ザル火災ヲ起シタル時ハ既ニ延燒管内林町附近ニ及ブ、此ニ於テ署構内ニ家財ト共ニ避難シ居ル約一千人ニ對シ兩國橋ニ向ツテ退却ヲ命ズ

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震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p239

東森下町方面に起つた火の手は忽ちの中に其邊一帶を甜め盡して今や相生署附近に火は近づいたのであつたが、署では直ちに重要書類を持ち出したそしてそれを被服廠跡の廣場に運んだのであつた。

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日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

午後2:50~ 両国橋渡橋断念、陸軍被服廠跡へ

横網町公園 東京都復興記念館 (最奥)焼損した両国橋の親柱の装飾と橋名板  撮影:2023.08.23

 避難者を両国橋方面へ誘導した相生署の署員たちはしかし、国技館付近の火災により両国橋の渡橋が不可能となる事態に見舞われ、管内唯一の安全地帯と目された陸軍被服廠跡に避難誘導することにしました*12

花町・菊川町・徳右衛門町等前後猛火ノ襲フ所トナリ、罹災者ノ混亂甚シキヲ以テ、山内署長ハ躬ラ部下ヲ勵マシ、避難者ニ對シテハ其携帶セル家財ヲ抛棄セシメ、豫定ノ如ク之ヲ兩國橋ニ導キシガ、幾モナク國技館附近ニ火災起󠄁リテ渡橋ヲ不可能ナラシメタリ。是ニ於テ橫網町ニ約二萬坪󠄁ヲ有スル陸軍被服廠跡ハ管内唯一ノ安全地帶ナリトシテ難ヲ避クルモノ夥シク、本署モ亦之ヲ確信シ、群衆ヲ麾キテ此處ニ入ラシメタリ

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警視庁(1925)『大正大震火災誌』pp1169-1170

午後3:00~4:00 陸軍被服廠跡の様子

 両国橋の渡橋を断念せざるを得ない状況において、両国地区における避難場所は、陸軍被服廠跡が最も適切と考えられました。避難者が殺到した被覆廠跡には、警察の呼びかけにも関わらず、すでに家財道具が積まれており、足の踏み場もないといった状況であったと記されています*13。また、この頃、相生署の渡邊巡査は巡査合宿所で思案する山内署長と会話をしています*14

旣に二萬坪󠄁以上もある被服廠跡の廣場には四萬餘の人があり家財は山の如く積んで足の踏場もない大混雜を呈してゐた

警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

 此時私は合宿所に行つた、(合宿所は安田善雄邸の東京被服廠跡の西側)そして玄關に出たとき其處には山内署長が腰劍を抑へ凛とした姿で、前󠄁方の(被服󠄁廠跡)群集を眺めて何やら考策の體であつた私は、署長に話して此處まで火が來る恐れがあるから水の用意をやらうと他の同僚と、はかつて附近の桶といひ釜といひ、凡ゆる器物を集めてそれに水を汲み入れた。

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日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

午後4:00 火災旋風襲来、そして震災最大の悲劇は起こった

 午後4時、被服廠跡では周囲の火災の影響もあり、風がますます強くなっていきました。そして、広場から南西方向で火災旋風が発生、隣接する安田家邸を襲来、この飛び火が被服廠跡に多く積まれた家財道具に燃え移り、これが呼び水となって火災旋風が被服廠跡に襲来、相生署の警察官を含む多くの人々が焼死することになります*15

四時近くより風は益々强力を加へて來たので同所にあつて避難民を指揮してゐた署長以下の警察官は止むを得ずその取締を斷念して皆居所の地上に伏した刹那、廣場遙かの南西方に當つて一大音󠄁響と共に黑々と大火柱が立つたそれは旋風だつたのであるこの强烈な大旋風は忽ちにして宏壯な安田邸を丸呑みとして火は被服廠の廣場に雨と降り注いで各所に山と積まれた家財より一時に火を發し四萬の人を甞め盡さん勢ひで燃え廣がり阿鼻叫喚、修羅の巷を此處に實現した

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

 相生署の渡邊巡査は巡査合宿所にいるときに火災旋風の襲来に遭遇しています*16

 そして合宿所の屋上庭園に上つて、火勢を見てゐたが、一寸川向ふ(隅田川)の明治病院(日本橋區)の方を見た其瞬間彼方から黑い塊の煙󠄁がクル〱と來るのが見へ、それと共に非常なる爆音が聞へた其音󠄁響󠄃が、黑い塊は疾風の如く合宿の方に向つて來たが、近づくのを見ると、それは火焰の塊であつた、それから、其黑塊は突風とともに益々多く突入して來る附近の硝󠄁子窓が飛ぶ、瓦礫が舞ふ、しばらくする中に合宿の窓といふ窓、はすべて吹き飛ばされた、そして遂󠄂に疊みまでも吹上げられる、蒸し暑い、とても其儘階上には居れぬのを見た私は直ちに下へ降りたが、風に吹き付けられ、出口まで行かれぬ、仕方がないから、梯子段の下に小さくなつてゐた、そして私は其處からすさまじい音󠄁と風がする方を見たがそのときは、もう眞紅な焰が合宿所の中に入らんとしてゐた。

 其中合宿所後の家が燒けた、(全く火の塊が來たのから起つた火と思ふた)其火焰が、合宿の中に突入して來たそして明け放し否吹き放しになされた、窓から火焰が黑煙󠄁と、ともに被服廠跡に行く、其勢ひは實に、すさまじいもので、グル〱と直經四五尺位の渦になつて群集の頭上身上に行く、私は其の渦を見たが、其渦が群集を見舞ふたびにバタリ〱と倒れる群集の姿が、渦の火焰の光りで、明かに見渡された。

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日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

 本所相生警察署の報告資料には、署員の生死について記録されています*17

(八)署員ノ生死

署長以下小使給仕ヲ合シ定員二百二十七名中死亡ト確定セル者警察官共十七名行衞不明二十五名其他ハ残存スト雖モ、孰レモ重輕傷ノ爲現ニ活動能力ヲ有スル者壹百五名ニ過ギズ。

震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p241

 この記述から、本所相生警察署は17名が死亡、25名が行方不明となり、定員227名のうち活動可能な署員は105名しか残存していなかったことが分かります*18

午後7:30~ 相生署・原警部による救護活動

 風がやや収まった午後7時30分、相生署の原警部が意識を取り戻し、署員の安否確認のため、大声で呼びかけましたが、応じたのは電信技手の一名のみでした。なおも捜索を続け、有馬警部補ら重傷者を救出していきます。

風やゝ収まつたのは同夜七時三十分頃で同時に意識を戻した原警部は先づ立つて署員の在否を大聲で呼ばつたそれに應じたものは齋藤電信技手唯一人で合宿所前󠄁の溝板の下から關塚巡査同所廣場から有馬警部補柳下巡査部長の重傷を負ふて倒れてゐたのを續いて救ひあげた

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警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

震災2日目

朝 被服廠跡と生存者、避難開始

 昨日の火災旋風の襲来から生き残った歩行可能な避難者は、東京市外の郡部や、上野、日比谷方面に避難を開始します。

 翌二日朝廣場ノ狀況ヲ見ルニ屍體累々其數計ル可ラス、而シテ生存者ニシテ健全ナルモノハ勿論、歩行稍〻自由ナル者ハ糧食ヲ得ル見込アル郡部方面並ニ上野、日比谷方面ニ避難セシメタリ、其數數千ニ及ブ。

震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p241

朝 相生署・渡邊巡査による救護活動

 一方、相生署の渡邊巡査は昨日の火災旋風により巡査合宿所から吹き飛ばされたものの、奇跡的に生き延びることができました。震災2日目の朝、御蔵橋派出所と東両国橋派出所の同僚12~13名と合流し、その後、一部の同僚と共に被服廠跡で救護活動を行います*19

 幸にして燒失を免れた御藏橋派出所と東兩國橋派出所の同僚と合せて十二三人翌󠄁朝出遇ふた、其ときは皆が、涙で喜んだのであつた。

 そして取敢へずニ三人で被服廠跡の方に救護に行くことにした、私達は、相生署員のなきかを連呼しつゝ歩いたのである、其頃は、燒けた人の中で氣息のある人達も奄々たりではあつたが、あるのがあつた。

 其時であつた死屍の中の泥中から、我署の原警部補を救ひ上げた。私共は國兩驛(原文ママ)から燒け殘りの氷を取つて來て、氣息のある人々には、少し宛與へた、其時の氣息ある人といふのは手足の動くやうな人に目を付けたのであつた。

 二日目には署員が十四五名になつた、私達は何よりも署長暑安否が氣遣はれるので署長の姓名と相生署の名とを連呼して歩いたそして氷がなくなつてからは川の水を吸んで來て、氣息ある人々に與へた。

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日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p7

震災3日目

山内署長夫人が発見される

 相生署の捜索は続きますが、山内署長は見つかりません。その中、救護活動中に山内署長夫人が令嬢を抱えた状態で呼びかけに応じて発見されます。しかし、令嬢は夫人の腕の中で死亡しており、署長夫人も夫の安否を気遣いながら、午後5時に亡くなりました*20*21

 三日であった、私共の連呼に應じて、「山内です」といふ聲が死屍累積の中から聞へた、私共は「山内とは」いふと「山内署長の妻です」と答ふ、すわ署長夫人かと私共は、死屍を分けて救上げた、ところがそのときの山内夫人は死兒を抱き自身は、身體下部殊に足は火傷して、皮膚が眞赤に爛れてゐた、署長夫人の最初の問ひは、「山内は如何ですか」とのことであつた、そして抱󠄁ける死兒も、それとは知らなかつた、取敢へず夫人を御藏橋派出所に収容して水を差上げた、

(一部新字体を使用)

日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p7

山内署長見えずと原警部はまだ燃え殘る屍體を踏分け險を冐して隈なく署員の在否を大呼して歩いたすると突然腕に幼兒を抱いた一婦󠄁人が橫臥の人込みの中から起󠄁上つて(中略)「ヤマノウチ」と明瞭に答へた顔は全󠄁く燒けくづれてそれと見る由もないがその聲音に確に署長夫人である事を知つた原警部は喜んで助け上げ(中略)たが五度署長の安否を糺し遂󠄂に三日午後五時落命して仕舞つた然もその腕には死ぬまでに旣に屍體となつた令孃が抱󠄁かれてゐた

(一部新字体を使用)

警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

震災4日目

11:00 署長の帯剣が発見される

 なおも行方が分からなかった山内署長。震災4日目の11:00、署長の帯剣が安田邸西端付近で発見されます。恐らくは火災旋風に巻き込まれ、安田邸方面に飛ばされ焼死したと推定されました。

當時の狀況を推測するとこの一大旋風が起󠄁るや山内署長は最も安全な地帶として署員並に其家族の多數を避難せしめた巡査合宿所の危險を思ひこれを救護すべく旋風を突破して同所へ向かつたが南へ强く吹きかけ來る旋風の爲めに足を取られ安田邸方面に吹き飛ばされつひに燒死したものらしい

(一部新字体を使用)

警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

震災5日目

12:00 死体の検視が始まる

 震災5日目の正午より、活動可能な警察官の手によって検視を開始、順次火葬していきました。

 慘狀を極めた東京本所橫網町安田邸跡から陸軍被服廠跡の一面に累々として山を爲して居る死體の檢視を所轄相生署の手で行ふべく、五日正午から(中略)生き殘つた警官の手で黑焦死躰を選󠄁び分け年齡男女別を記入し十人乃至二十人位宛火葬に附した、この死體一萬五千、いつになつたらその死體の始末がつくか判󠄁らないが取敢ず兩國驛の鐵道從業倶樂部前の巡查派出所に本部を設けて警視廳の應援󠄁を受けて處理してゐる、

(一部新字体を使用)

立石亀一(1923)『大正大震災紀念書 惨状と惨話』p65

 署長を失い、壊滅状態となった本所相生警察署。震災当時の行動を文章で追っていくと、生き残ることが非常に困難であったことが推測できます。大震災はいつ発生するかはわかりません。避難場所を作る都市計画の重要さ、そして事前に避難場所を確認するなどの準備の大切さを、被服廠跡の悲劇を追うことで実感させられました。

*1:日本警察新聞(1923)「震災血涙史『山内相生署長の訓授』」『日本警察新聞』No.585 p5

*2:警察協会(1923)『警察協會雑誌』p106

*3:震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p239

*4:警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p106

*5:日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

*6:震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p239

*7:警視庁(1925)『大正大震火災誌』p1169

*8:後藤美緒(2010)「1920年代の学生と住居―東京帝大新人会における『合宿所』の考察から」『社会学ジャーナル』No.35 p53

*9:警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

*10:日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

*11:但し、相生署の渡邊巡査の証言では、相生署は午後2時半過ぎに炎上したとしている。

*12:警視庁(1925)『大正大震火災誌』pp1169-1170

*13:警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

*14:日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

*15:警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107

*16:日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p6

*17:震災予防調査会(1925)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』p241

*18:後に本所相生署の死者は34名と伝えられています

*19:日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p7

*20:日本警察新聞(1923)「萬死に一生を得たる『相生署 渡邊巡査』」『日本警察新聞』No.585 p7

*21:警察協会(1923)「雜報」『警察協會雑誌』p107