建築情報
悲劇の地に建つ、「不言の警告」を今に伝える建築
東京都墨田区横網、ここに関東大震災と東京大空襲の犠牲者を弔うために整備された公園があります。この地は、関東大震災において火災旋風が襲来し、当地に避難していた3万8千人もの人々が焼死しました。この悲劇の地に、関東大震災の犠牲者の霊を追弔すると共に、「不言の警告」を後世の人々に伝え続けるために建築されたのが、震災記念堂(後の東京都慰霊堂)となります。
建築の様子
東京都慰霊堂は、横網町公園の核となる施設です。元々は一般公募により別のデザインに決まっていましたが、反対論が多く、伊東忠太博士による「純日本式」とした設計に変更され建築されました。
三重塔
三重塔について、伊東博士は下記の点を挙げて「旣往の例と異つてゐる」と述べています*4。
枓栱と垂木
三重塔の屋根部分をよくみると、枓栱が見当たらないことに気が付きます。垂木もまた、デザインとして取り入れている印象をもちます。伊東博士は、構造を簡単にするのみならず、堅実な印象を与えるためにこのような設計にしたと記述しています*5。
第一柱上に枓栱が無く、正式の垂木も無い。此れは構造を簡單にする爲め許りで無く、堅實の感を現さんが爲めである。
(一部新字体を使用)
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』p338
相輪
相輪部分は、国内にある寺院の多層塔とデザインが大きく異なります。伊東博士は自らの独創であるとした上で、心柱が無い慰霊堂の三重塔には、心柱の上部の屋上に露出した部分を相輪としている日本の塔のデザインにする必要性は無いとしました。一方、中国の塔は甎造で心柱が無いため、インドの塔は石造であるため、塔の相輪のデザインについては両者から「暗示」を得られたとしています*6。
更に其の相輪の樣式は全󠄁く予の獨創である。勿論主として支那及び印度の塔から暗示を得たのであるが、何れの實例にも模倣してゐないのである。普通の日本の塔の相輪は心柱の上部の屋上に露出した處へ九ツの輪を嵌めた趣向であるが、記念堂の塔には心柱が無いから此の趣向に據ることは無意味である。支那の塔は普通甎造で心柱が無いので、我が記念堂の塔と此の點に於いて近似である。印度の塔は石造󠄁であるからこれも類似の性質がある。卽ち此の塔の相輪の意匠に就いて、日本塔よりは支那塔や印度塔から適當な暗󠄁示が得られた所󠄁以である。
(一部新字体を使用)
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』pp338-339
外観
伊東博士は、慰霊堂を構成する向拝、本堂、翼堂、塔の調和と、同時に単調にならないよう形の変化に検討時間を費やしたことを述べています。具体的に、形においては向拝の大唐破風、本堂の入母屋、翼堂の切妻、塔の宝形、高さに於いては塔の三層、本堂の重層、翼堂と向拝は単層として変化するようにしています*7。
予は當初本建築の外觀に於いて、向拜、本堂、翼󠄂堂、塔の四つの取り合せの釣合と、其の形の變化に就いて考慮を費やしたのであつた。釣合の善惡可否は觀る人の直觀に訴へるより外はないが、形の變化は一方に於いては向拜の大唐破風、本堂の入母屋、翼󠄂堂の切妻、塔の寶形に於いて、他方に於いては塔の三層、本堂の重層、翼󠄂堂及び向拜の單層に於いて試み、なほ細部に於いて更に變化に努めた積りである。
(一部新字体を使用)
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』p339
妖怪像
中世ヨーロッパの教会建築にある「グロテスク」を想起させる、伊東博士の妖怪群。東京都慰霊堂にある妖怪像は、全て伊東博士が遊び心ではなく、真剣な気持ちで設計したものです*8。
一見滑稽なる遊戯を試みたかの如くであるが、予の心事には毫も遊戱的氣分は無く、最も緊張した眞劒味を以て考案したのであることを承認されたい。予は眞の滑𥡴味は眞劒の裡より生じ、眞の眞劒味は滑𥡴の裡より生ずるものと信じてゐるのである。結局眞劒卽ち滑𥡴、滑𥡴卽ち眞劒である。
(一部新字体を使用)
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』pp343-344
ただし、残された資料からは、伊東博士はなかなか納得できる出来にならなかったと思われます*9。
三重塔の屋根裏四隅の下の彫刻
三重塔の拡充の屋根裏の四隅の下にある彫刻について、伊東博士は失敗に終わったと考えているようです*10。
塔の各重の屋根裏の四隅の下にあるグロテスクの彫刻は、圖案としては相當面白いものと信じてゐたが、原型製作がどうしても自分の思ふ樣に出來ず、これは寧ろ失敗に終つたと思つてゐる。
(一部新字体を使用)
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』p340
本堂上層の枓栱の間にある妖怪像
本堂の上層の枓栱の間にある妖怪の像についても、伊東博士は納得がいってないようです*11。
本堂の上層の枓栱の間にある怪物の像は、多數の人に面白いと認められてゐる樣であるが、自分としては今一呼吸と云ふ所であると思ふ。
(一部新字体を使用)
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』p340
屋根上四隅の妖怪
本堂や翼堂などの屋根上に設けられた妖怪について、伊東博士は特に言及されていません。どことなく可愛らしい印象を持つ妖怪です。
本堂堂内
建物の外観は仏式の影響が濃いため、内部は仏式に囚われないように意図して設計されています。堂内には回廊式の列柱が巡らされ、長椅子が並ぶ様子はキリスト教会のよう。一方で、天井は日本の伝統建築で格式の高い場所に使われる折上格天井を採用*12。そして、本堂奥の壇及び厨子はあえて神殿のような造りとしたそうです*13。
堂内の設備として、第一に本堂の奥なる壇及び其の上の厨子を擧げる。厨子は臺灣檜の素木で作つた唐破風造りで、其の體裁は全く神殿の如くである。建築の外貌が寧ろ佛式であるから、故意に厨子までも佛式で徹底せしめなかつたのである。
伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』p343
令和5年は、関東大震災から100年。当時の人々の願いを、私たちは受け継げているのだろうか。慰霊堂の中で、当時の悲惨な様子を描いた絵画を見て、考えてしまいました。