まだ知らぬ、日本を訪ねて

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横網町公園【歴史編】

元々は倉庫の敷地だった横網町公園

横網町公園  撮影:2023.08.23

 現在、震災と戦災の犠牲者の慰霊を目的として整備された横網町公園。近世においては徳川将軍家の材木蔵、米蔵の敷地として活用され、近代からは帝国陸軍の被服本廠があった場所でした*1。今回は、江戸時代からの土地活用を古地図から確認すると共に、東京市へ払い下げされた後の計画の変遷を見ていきたいと思います。

近世の変遷

 横網町公園がある墨田区の地域は、明暦三年(1657)の「明暦の大火」の翌年から大規模な開拓が始まります。以後、横網町公園となる敷地は徳川将軍家の材木蔵、米蔵の敷地として活用されていきました*2

御材木蔵の時代

 明暦の大火の翌年から始まる大規模開拓以後、横網町公園の一帯は徳川将軍家の材木蔵として利用されてきました*3。明暦の大火から14年が経過した寛文十一年(1671)の江戸を描いた地図『新板江戸外絵図』では、当地の敷地が「御材木」と記されていることが確認できます。

『新板江戸外絵図 深川、本庄、浅草』より拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクション)

米蔵の時代

 八代将軍・徳川吉宗公の治世下である享保十七年(1733)、今までの材木蔵として利用していた敷地を、米蔵へ転換することにします。背景には相次ぐ飢饉による百姓一揆や米価高騰の対策として、米の流通管理と米価安定を狙っての意思決定でした*4。少し時代が下りますが、米蔵への転換から約80年後の文化十四年(1817)に伊能忠敬らによって作成された『江戸實測図』では、当地の敷地を「御米蔵」と記されていることが確認できます。

『江戸實測図』より拡大抜粋(国土地理院 古地図コレクション)

近代の変遷

陸軍被服本廠

 明治維新以後、この敷地は帝国陸軍が活用することになります。当初は武器倉庫や材木、石材などの資材置き場として利用されましたが、明治19年(1886)頃から、同年に設立された陸軍被服廠(後に陸軍被服本廠に改称)として活用されるようになります*5。その後、大正8年(1918)に陸軍被服本廠は本所区から王子区に移転となりました。大日本帝国陸地測量部が明治42年(1909)に測量した『一万分一東京近傍地形図』には、「被服本廠」と明記されています。

明治42年(1909)測図「日本橋」より拡大抜粋

横網町公園

幻に終わった当初の計画

 大正11年(1922)、陸軍省東京市に対して被服本廠の土地の内、約6,300坪の払い下げます。これを受け、東京市大正12年度予算に施設費10万円を計上、横網町公園の整備に着手しました。当初の計画の設計概要を読むと、江東地区に一大公園を築こうとする意気込みが伝わってきます*6

震災前ノ横網町公園設計圖(「『被服廠跡』新字体アーカイブ」より引用)

設計槪要󠄁

 本園は東京市最初の近代風中級公園として、從来餘り綠地に惠まれざりし江東方面の慰安休養の地とし、又一面に於ては社會敎化、體育奬勵の中心地たらしむる目的にて建設せんとするものにして、園の中央には直線百米突一周三百米突のトラツクを設け、之れを中心として約五百坪の大集團廣場を設く、廣場の北隣には大規模の野外劇場と雅趣ある日本風林泉を配し、西部には靑、少年用の運動遊戯場を設く。

廣場の南隣は小丘となし、二千人を収容すべきスタンドを築く外、園内適所には一般公園として必要なる休憩、照明其他の施設を有し、江東方面の一大遊樂地たらしめんとす。

(一部新字体を使用)

東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp84-85

 当初の設計概要から以下のことが読み取れます。

  • 横網町公園東京市最初の「近代風中級公園」として、次の目的をもって設計された。
    • 緑地が少ない江東地区(現在の墨田区江東区)の慰安休養の場所とする。
    • 社会教化、体育奨励の中心地とする。
  • 園内には直線100m、一周300mの陸上トラックを設け、これを中心とした約500坪(約1,650㎡)の広場を整備する。
  • 広場の北側に野外劇場と日本風の林泉庭園、西側に青少年用の運動遊戯場を設け、南側は小丘を造成し、2,000人を収容するスタンドを設置する。
  • 公園として必要な休憩スペース、照明その他の施設も整備し、江東地区の一大遊楽地とする。
悲劇の地となる被服廠跡

 予算も計上され、整備に着手した大正12年(1923)に関東大震災が発生します。震災当時、更地になっていた被服廠跡は大勢の人々が避難していましたが、火災旋風が直撃したことにより約3万8千人もの人々が犠牲となりました。当時、東京市公園課長だった井下清氏は、火災旋風襲来前後の被服廠跡を訪ねており、その様子を記しています*7

本所の被服廠跡の工事場と安田邸が気になって馳付けると、公園と附近の空地二万四千坪一帯は避難者と荷物で一杯になり、要領のよい人達は簞笥や荷物を城郭のように積廻した間で昼飯をとっているのもあった。勿論通路があるでは無く、片っ端から乱雑に占居しておるのであった。安田邸は何の異状もないので直ちに引返した。

(中略)

 被服廠跡が大変という急報で馳つけると、数時間前の避難光景は夢で、四方から押寄せろた火焰が旋風を起こし、人や物を高く舞あげたものもあり、地上は猛烈な火焰のルツボとなって焼きまくられ、端の方の人達は手早く命からがら脱出したのであったろうが、大部分の人達は荷物と共に累々と黒焦になって未だ焰をあげておった光景は、此の世のものではなく夜の暗が来ても赤い焰をあげて燃えあがっていたのであった。後で数えたのであるが、無惨な焼死者は此処だけで三万八千人であった。

井下清(1971)「大正大震火災を回顧して」『都道府県展望』vol.8 no.155

震災後ノ被覆廠跡(「『被服廠跡』新字体アーカイブ」より引用)

 震災後は、様々な宗教団体が許可または無断で祭場を建設し、一方で東京市は被災者救護のためのバラックや宿泊所、診療所、青果市場が建設され、また一部の人々もバラック等を建築するなど、無秩序なバラック村が作られることになります。この状況は、大正13年(1924)に内務省が土地区画整理施行地域に指定したことを契機に、調整に難航しながらも順次整理されていきました*8

計画変更

 関東大震災の被災地の中で最も悲惨な現場となった被服廠跡は、後世に警告を与える施設にするため、従来の計画を中止し、変更することになります*9

 斯くして六萬の英靈の永久に眠れる此地の假納骨堂には日夜參拜者相次ぐ狀況より見て、此地を擧げて災害を記念し、將來に警告すべき意義ある施設を殘すことを、最も機宜に適せる策と認められ、從前の公園設計は中止されることゝなつて、大正十二年度公園設備費支出額千百九拾四圓參錢を以て事業打切りとなつた。

(一部新字体を使用)

東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp89

東京市の計画

 震災の応急救護事務が一段落した大正12年(1923)12月、東京市公園課にて井下清課長が主任となって公園の設計に着手します。当時の設計案では「大正震災記念公園」として設計されていました。

東京市ニテ當初計画サレシ震災記念公園平面図(「『被服廠跡』新字体アーカイブ」より引用)

(上)創立當時震災記念堂設計平面圖 (下)震災記念堂設計圖(「『被服廠跡』新字体アーカイブ」より引用)

名 稱  大正震災記念公園

面 積  凡五千八百九十坪

計畫槪要󠄁

本用地は公園施設準備中の處過般の大禍を極め、現在本市遭難者の遺骨を保管する假納骨堂の設備あるを以て、此地を卜し震災遭難者を追弔すべき記念堂を建設し、之れを中心として周圍に森嚴なる公園設備を施し以て犠牲者を永久に追弔すると共に社會的敎化機關となし、後世再び斯の如き慘禍あらしめざらんことを期するものなり。

(中略)

施設槪要󠄁

園の中央に一大記念堂を設け、犠牲者を弔慰すると共に社會敎化宣傳の機關となり得るものとし、其の周圍は森嚴なる公園となし、以て大正震火災を記念するに足る一大記念公園を建設せんとするものにして、記念堂は約五百坪の野外祭場的建造物となし、共の後部中心は祭壇又は演壇として使用し得る八角堂となし、其の左右より圓形に廻廊を圍らし、正面樓門に於いて合す。廻廊内に圍まれたる座席は約千人を収容し得べきものとす。

建築様式は奈良朝時代とし、其の局部手法に於て大正時代を現はさんとす。

構造は鐵骨を主體とし之を鐵筋混凝土にて被ひ屋根は嚴肅味を表現するに充分なる綠靑銅板瓦棒葺となす。

其他の施設としては全園を芝生樹林式庭園となし靜寂なる風趣を現はし散策に休養に又安全なる避󠄁難地に備ふるものとす。

(一部新字体を使用)

東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp90-94

 東京市により設計されたこの計画は、多くの人の協力によって建設することが最も有意義であること、東京市が負担する震災復興事業が多いため、新たに記念堂を建設することは非常に困難でした。そのため、市費での整備ではなく、東京市東京府、そして民間の協力による事業団体「東京震災記念事業協会」を設立して寄付金を募集しながら整備事業を行うことになります*10

一般公募と一等当選案

 前述の東京市の設計案が公表されるのと並行して、一般からの設計案も広く募集することになりました。

場所 本所區横網町被服廠跡

面積 凡五千八百九十坪

経費 約六十五萬圓

賞金 一等一人   金參千圓也

(中略)

應募心得

 本建物は敷地の要部に之を建設し、周圍は樹林、泉池とし、大震災を永久に記念し以て遭難者の靈を弔慰し、且つ祭典を執行せんとするものなるを以て此點に留意し可成實地踏査をせられたし。

 記念建造物には遭難者の遺󠄁骨を納め、祭典は宗敎的儀式に依ることあるを以て、此點に考慮せられたし、建物は耐震火及耐久的構造とし、建築材料は已むを得ざるものゝ外は本邦產を用ふこと。

(一部新字体を使用)

東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp96

 大正14年(1925)に公募の審査が行われた結果、一等には第一銀行の技師である前田健二郎氏の案が当選しました。

一等当選案への反対論

  一等当選案に対して、一部で反対論が出てきます。このことについて、協会の建築顧問であった伊東忠太氏が次のように振り返っています*11

 應募圖案は翌󠄁大正十四年三月に審査され、其の結果前田健次郎氏の圖案が一等當選の名譽を得たのである。當局は氏の案に由つて實行設計を作り、著々進捗したのであるが、氏の案に就いて或る方面から不滿を唱へ出した。或る專門家は、氏の圖案は佛國の某建築の剽竊であると唱へて當局を悩まし、或る團體は、純西洋式の建築は此の記念建築にふさはしくないと當局に抗議し、事業は終󠄁に行き惱みの狀態に陷つたのである。

伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』pp332

(一部新字体を使用)

 事業の推進に当たっては広く国民に寄付を募っていた手前、世論の反対がある中で一等当選案を実行することは不可能な状況となり、大正15年(1926)に前田氏の設計図案を変更する方針を決定します。そして、昭和2年(1927)に協会は伊東忠太氏に対して新設計を依頼することになりました。

伊東忠太氏による震災記念堂の設計

 伊東氏は、世論の意見を鑑みて、様式を「純日本式」としながらも、所々に独自色を出す、古さの中に新しさを感じさせる建築となりました。伊東氏は震災記念堂の設計方針等について、『日本建築の研究 下』で次のように記述しています。

 社寺の建築には形其のものに意義がある。内容備はれば外形は深く問うに及ばずとして、例へば四角な箱の如き建築を造り、これを某寺本殿某社神殿と稱しても恐らくは何人も承知せぬと思ふ、これ蓋し長い年月の間我々國民は神社佛寺の特殊な建築に慣れ、終に形其のものに神佛の尊嚴を結び付け、終にこれを切り離すことが出來なくなつたのであらう。此の長い歴史を有する信仰を、今更放棄せよと言ふのは無理でもあり、又其の必要も無いわけである。結局我が記念堂は鐵骨鐵筋コンクリートを以て日本舊來の宗敎的様式の建築を現さねばならぬ運命に立つものであり、而もそれは決して不都合でも不合理でもないのである。詮ずる處昔は木材で造つた様式の建築を、今は鐵骨鐵筋コンクリートで造ることになつた迄の話である。

(中略)

設計の方針は、第一記念堂の用途に適すること、第二其の材料は鐵骨鐵筋コンクリートを主體とすること、第三其の様式は純日本式とし、佛堂の觀を表現すると同時に幾分神社の氣分を濳在せしむること、第四細部の手法には必ずしも古式を蹈襲せずして、隨所に新案を試みること等であるが、成敗利鈍は自らこれを知らぬ、只、世の敎へを待つのみである。只何分工費が潤澤でないので、工事の程度は寧ろ甚だ質素なものになつたが、それよりも予の考案に推敲を盡さなかつた點が少くなかつたことを陳謝して置く。

(一部新字体を使用)

伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』p332

 氏の記述から、時間、費用の面で苦労しながら、その大いなる意義を見出して挑んだ作品であることが伺えます。こうして、紆余曲折を経ながらも、横網町公園は開園したのでした。

東京大空襲では焼けなかった横網町公園

 横網町公園は、関東大震災での被害を再び起きない願いを込めて整備されました。しかし、わずか20年足らずで東京は再び壊滅状態となります。関東大震災での火災を研究したアメリカ合衆国によって無差別爆撃が実施され、結果、関東大震災を上回る人々が犠牲となりました。本所区もそのほとんどが火災により焼失しましたが、この横網町公園は火の手から守られます。この公園の設計に携わった方々の意図が図らずも発揮された瞬間なのかもしれません。敗戦後は、戦災で犠牲となった方も横網町公園で合祀されることになり、現在に至ります。

*1:公益財団法人東京都慰霊協会(2020)『横網町公園今昔』pp4-6

*2:公益財団法人東京都慰霊協会(2020)『横網町公園今昔』pp4-5

*3:公益財団法人東京都慰霊協会(2020)『横網町公園今昔』p4

*4:公益財団法人東京都慰霊協会(2020)『横網町公園今昔』pp5

*5:公益財団法人東京都慰霊協会(2020)『横網町公園今昔』pp6

*6:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp84-85

*7:井下清(1971)「大正大震火災を回顧して」『都道府県展望』vol.8 no.155

*8:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp87

*9:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp89

*10:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp94

*11:伊東忠太(1936)『日本建築の研究 下』pp332