1日目
1月の連休を活用し、京都旅行に行ってきました。今回は「第54回 京の冬の旅」にて文化財を特別公開している寺院のうち、泉涌寺付近を中心に回りました。
泉涌寺別院 雲龍院
雲龍院は泉涌寺の別院です。拝観時に頂いたパンフレットには次のように記載されています。
御寺泉涌寺本坊の南高所に位置する真言宗泉涌寺派別格本山雲龍院は、応安五年(一三七二)後光厳天皇の思召しによって、竹巌聖皐が開いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経を興そうと寺領を寄せ、龍華殿を御建立した。
鎌倉時代の作と伝わる「走り大黒天」や徳川慶喜公が寄進したとされる「灯篭」、「悟りの窓」、「蓮華の間」などの見どころがある寺院です。
泉涌寺
皇室の菩提寺であったことから「御寺」と呼ばれている泉涌寺。すべてにおいて、品の良さが感じられるお寺です。拝観時に頂いたパンフレットには、「御寺」と呼ばれた経緯が記載されています。
泉涌寺を「御寺(みてら)」と称する理由は、皇室の菩提寺・香華院であるからに他なりません。鎌倉時代、父帝・後堀河上皇の観音寺陵につづき、仁治3年(1242)正月25日に四条天皇を泉涌寺月輪陵へ奉葬いたしまして以降、泉涌寺と皇室御葬礼との関係が始まりました。
(中略)江戸時代には泉涌寺「月輪陵」が唯一正統の陵所とみなされ、承応3年(1654)の後光明天皇からは泉涌寺陵所への御埋葬が幕府の方針でした。光格天皇以降を「後月輪陵」と称し、孝明天皇「後月輪東山陵」・英照皇太后「後月輪東北陵」まで、あわせて25陵・5灰塚・9墓を数えます。
孝明天皇の綸旨には「四条帝以来の御代々御陵守護の官寺」として「諸寺の上席」たるべき事が勅命されており、ここに御寺泉涌寺に寄せられました皇室の格別の御崇敬が拝察されるのです。
美しい姿を今に伝える「楊貴妃観音像」、神社仏閣では珍しい「下り参道」、皇族方の御休息場所である「御座所」と美しい「御座所庭園」などが見どころとなります。
泉涌寺別當 来迎院
泉涌寺の境内を出る際、「含翠庭」という看板が気になり、来迎院を拝観しました。拝観時に頂いたパンフレットには次のように記載されています。
弘法大師が大同元年(八〇六)、唐の国で感得した荒神尊をこの地に奉安したのが来迎院の始まりと伝えられている。その後衰退したが、泉涌寺第四世月翁智鏡律師が藤原信房公の帰依を受け、建保六年(一二一八)堂宇を開創して泉涌寺子院とした。
(中略)
また、当院は忠臣蔵で知られる大石内蔵助とも深い関係がある。元禄十四年(一七〇一)、大石は、赤穂の退き浪人となった時、外戚で当時泉涌寺長老で来迎院住職であった卓巖韶興宗師を頼り、寺請証文を受け、山科に浪宅を構えて当院の檀家となった。大石は、同族の進藤源四郎と共に書院を再建し、また、風雅を好んだ彼は、弘法大師が独鈷をもって掘ったと伝わる名水(独鈷水)が湧き出ているのを知って、茶室含翠軒を建立し、茶を楽しむと共に仇討ちの柵を練り、同士と密会したと云う。
来迎院『来迎院 拝観の栞』(2020.01.11 配布)
境内には大石内蔵助が建立したといわれる茶室「含翠軒」が残されており、忠臣蔵に思いを馳せることができる場所です。
新善行寺
新善行寺は「第54回 京の冬の旅」にて文化財の特別公開を実施しています。拝観時に頂いたパンフレットには次のように記載されています。
新善行寺について
寛元元年(1243年)、御嵯峨天皇の勅願により創立、本尊は信州善光寺阿弥陀如来と同仏同体に鋳造された鎌倉時代の作である。
御嵯峨天皇は常に宮中に安置なされ、都の内外万民に至るまで信濃の国へは遠き山路を超え、日を経ずしては到着することができず、また、志あれども思うにまかせざる者の為に、一条大宮に大梵刹をおこし「値願」を請して開山、寺号を「新善行寺」と賜るにはじまる。応仁年間に兵火にかかるが、文明五年(1473年)後土御門帝の勅により泉涌寺に移され現在に至る。
新善行寺『一條殿 新善行寺』(2020.01.11 配布)
本堂には「善光寺式」と呼ばれる印相をした阿弥陀如来像を拝むことができます。また、江戸時代建立の大方丈には、狩野周信の作とされる「唐人物図」を見ることができます。
こうして、京都の旅の1日目は泉涌寺付近の散策で終わりました。皇室の品格と美を感じることができた初日でした。