庭園情報
北政所ゆかりの寺院の名勝庭園
太閤・豊臣秀吉公の正妻である北政所・高台院。太閤殿下の死後、豊臣恩顧の武将たちに大きな影響力を持っていることから神君・徳川家康公に厚遇されていました。この高台寺についても家康公は配下の武将たちに伽藍造営の普請を命じています。高台寺の創建は慶長十一年(1606)ですが、重森三玲氏によると、高台寺の庭園はそれより後の延宝~天和年間(1673~1683)の完成ではないかと推定しています*3。
庭園の様子
高台寺庭園は開山堂を挟んで西側の偃月池、東側の臥龍池の二つに分けることができる他、方丈前庭の枯山水、茶室の露地も整備されています。
偃月池
開山堂の西側にある偃月池は護岸石組が多く設けられており、池の北部には中島(亀島)、池南部には出島(鶴島)が築かれています。立派な石組を多数用いており、開山堂や楼船廊、観月台の建築と相まって美しい景観を生み出しています。
重森氏によると、地割の特徴から江戸中期に入る先駆的な存在であることを指摘しています*4。また、庭園完成の時期や作風から、小堀遠州は関わっていないとしています*5。一方、高台寺の現地解説板には小堀遠州によって作庭されたと伝えられている*6、としています。
臥龍池
開山堂の東側にあたる臥龍池は、西側の偃月池と異なり護岸石組がありません。一部枯滝石組がありますが、かなり荒廃しているように見受けられます。
重森氏は臥龍池について、地割が寛文~延宝年間(1661~1681)の典型様式となっていること、また護岸石組が一つも無いことからから、偃月池よりも先に着工したものの未完成のまま放置されたと推定しています*7。一方で、高台寺の現地解説板によると、臥龍池は高台寺の建立以前の名残を残しているとされています*8。
方丈前庭「波心庭」
方丈前庭「波心庭」は北山安夫氏により修復された枯山水庭園です。方丈の前を白砂が敷き詰められ、左右の奥は苔庭と石組で構成されています。
北山氏によると庭園東側の三尊石組は釈迦が弟子に対して説法をしている様子を表しており、西側の石組は釈迦の説法を聞いている弟子の様子を見守っている大衆を表しているとのこと*9。こうしてみると、庭園の奥深さを感じさせてくれます。
遺芳庵 露地
遺芳庵は大きな円形の窓が特徴の茶室。豪商・灰谷紹益の妻、吉野太夫遺愛の茶室とされています*10*11(太夫の死後に造られた説もあり)。元々は別の場所にあったのを移築したものです。茶室の前は枯れた流れととなっており、通路から石橋を渡るようになっています。
時雨亭・傘亭 露地
時雨亭、傘亭はともに国の重要文化財に指定されている茶室で、伏見城から移築されたと伝えられています*12。両亭をつなぐ土間廊下は高台寺へ移築後に小堀遠州により設けられました*13。時雨亭は伏見城時代に、太閤殿下が突然現れるために名付けられたともいわれています。また、高台寺に移築された後に発生した大坂の陣では、この時雨亭から北政所が炎上する大坂城を眺めていたとも伝えられています。豊臣家の栄光と悲劇が交錯する茶室と言えそうです。
竹風庭
竹風庭は茶席・雲居庵の庭として、北山安夫氏により整備されました*14。高台寺の雰囲気とよく合っています。
高台寺は豊臣家の栄光とその後の悲劇を今に伝える史跡です。この美しい庭園は、太閤殿下と北政所の霊を慰めんとするために作られたのかもしれません。
参考文献
*1:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p111-112
*2:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p112
*3:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p111-112
*4:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p113
*5:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p111-112
*6:高台寺『国の史跡・名勝 高台寺庭園』(2021.01.12 閲覧)
*7:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p113
*8:高台寺『国の史跡・名勝 高台寺庭園』(2021.01.12 閲覧)
*9:北山安夫(2020)『北山安夫の庭と心 高台寺方丈波心庭』<https://youtu.be/fZ-tF2tiIh4>(2022.01.05 閲覧)
*11:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p118
*12:重森三玲・重森完途(1973)『日本庭園史大系14 江戸初期の庭(一)』p117
*14:雲居庵『茶席 雲居庵 庭 竹風庭』(2021.01.12 閲覧)