まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

玉泉院丸庭園

庭園情報


撮影:2016.12.23

  • 名称:玉泉院丸庭園
  • 作庭:前田利常、剣左衛門(賢庭?)、千宗室(仙叟)
  • 完成:寛永十二年(1635)、平成27年(2015)に再整備
  • 備考:国指定史跡

蘇る、金沢城内の庭園

 北の古都、金沢には素晴らしい庭園があります。日本三名園として有名な「兼六園」、前田家家臣の隠れた名園である「玉泉園」、そして今回取り上げる「玉泉院丸庭園」です。しかし、この「玉泉院丸庭園」は近年までその姿を消していました。明治維新以後、庭園から露天馬場、厩、薬草園、そして体育館へと用途が変わる過程で、玉泉院丸庭園は跡形も無くなりました。関係者の熱意により、この日本庭園はかつての姿を蘇らせたのです。

金沢城の玉泉院丸

「玉泉院丸」の由来


撮影:2016.12.23
 元々、玉泉院丸は金沢城の西側に所在する郭のため、「西ノ丸」と呼ばれていました。西ノ丸は元々、重臣たちの屋敷が置かれていたとされます。その後、加賀前田家二代当主・前田利長卿が亡くなった時、正室である永姫は落飾され玉泉院と号し、金沢城の西ノ丸に居住することになります。こうした経緯により「西ノ丸」は後に「玉泉院丸」へと呼ばれるようになりました。

寛永の危機」から始まる庭園の由来


撮影:2016.12.23
 玉泉院丸が庭園へと姿を変える直前、加賀前田家は「寛永の危機」と後世呼ばれる騒動にありました。少し遡ること三年前の寛永八年(1631)、大御所・徳川秀忠公は病床に伏していました。この頃、加賀前田家三代当主・前田利常卿は金沢にて小姓の選抜や大坂の陣の功のあった臣下を追賞、軍船を他家よりも多く購入、そして火災で焼失した金沢城を堅固な城塞へ修復するなどの施策を実施しました。しかし、外様大名最大の領国を持つ加賀前田家の行動は、江戸の徳川幕府にとって不気味ともいえる動きであり、謀反の疑念を持つに至ります。謀反の疑いを持たれた利常卿は釈明をする為に親子で金沢を出立し江戸に入ります。将軍に謁見することがなかなか許されない利常卿は、江戸本郷の上屋敷の庭園を改修し、巨石や花卉を邸内に運搬させることで人々の注目を集めるようにしました。後に徳川幕府老中・土井大炊頭が加賀前田家家臣に対し、前述の様々な施策について問い質した際、最後に江戸の上屋敷の庭園改修工事についても疑問を投げかけました。大御所が病床に伏しているにも関わらず、なぜ庭園の改修をするなど気ままに遊び楽しんでいるのかと。家臣は答えます。皆が不安にいる中で諸侯首班の加賀前田家が鬱屈すれば、ますます不安になってしまう。造園事業をすることで、平常時と全く同じであることを示している。この問答の後、加賀前田家への疑念は晴れました。しかし、以後も予断を許さない状況もあって、利常卿は二年以上金沢へ帰ることが出来ませんでした。
 利常卿が金沢へ帰ることが出来たのは寛永十一年(1634)四月下旬。それでも、五月下旬には三代将軍・徳川家光公の上洛に供奉するため出立します。閏七月、家光公の御所参内を祝う一連の儀式を終えた利常卿は金沢に戻ります。その直後から玉泉院の屋敷跡に露地の造営を命じ、自ら陣頭指揮を執りながら造園事業を遂行、再び江戸へ向かう寛永十二年一月頃までに完成したと推定されます。これについて石川県史は次のように記しています。それは、加賀前田家の徳川将軍家に対する意思表示であったと受け取れます。

次いで八月利常は大津より直に歸國し、城内玉泉院丸の土工を行ふ。玉泉院丸は、利長夫人玉泉院の居館ありし地なるが、利常はその遺址を平かにして、園囿を修めしめたるものにして、また逸豫を事とし軍國に念なきを示さんが爲なりしなり。
石川県(1939.03)『石川県史 第二編』

利常卿と小堀遠州と賢庭


撮影:2016.12.23
 玉泉院丸庭園の造営の際、「剣左衛門」という庭師を京都から招いています。この庭師・剣左衛門の詳細は不明ですが、一説には小堀遠州の弟子である「賢庭」ではないかと言われています。「賢庭」は伏見城庭園、醍醐寺三宝院庭園、金地院庭園などの作品を残した作庭の名手。金地院庭園の作庭直前はちょうど金沢城本丸庭園の作庭に携わっています。利常卿と小堀遠州とは茶道や庭園で交流があり、多くの手紙が残されています。また、二人の逸話に次のようなものがあります。

一、御上洛御供に中納言様大津御屋敷に而御茶湯被成とて、築山泉水被仰付、近日御客之御用意也。然處小堀遠州大津見廻に被参、留守なれど御庭一覧被致、御大名之物數寄には小さき事、あの大山と潮水御目に不見かと被申。慶安石鄢采女聞、御歸とひとしく御耳に入。中納言様御聞被成御笑、至極とて泉水築山御崩し石斗御置、御書院の向の塀御懸直し、中を御切取、格子小間に仰付、湖、叡山、唐崎三上山一目に見ゆる様に被成、先遠州を御招請。宋甫見て手を打ち、是でこそ大名の御露路なれ、如形泉水、如形山被仰付たりとて、ほめ被申退出也。跡にも仞も和尚に成者の器量は別の事と御意也。
(1942.06)田治六郎「前田利常の作庭と那谷寺庭園」『造園雑誌』(『松梅語園』引用部)

 この逸話からも分かる通り、利常卿の作庭家としての能力が高いことを伺わせます。また、多くの専門家が指摘する通り、小堀遠州とも交流があることから玉泉院丸庭園でも小堀遠州や賢庭の関与があったのかもしれません。
 なお、関連があるかは不明ですが、宇喜多秀家卿の正室前田利家卿の四女、利常卿の姉である豪姫が寛永十一年五月に金沢城鶴の丸で亡くなっています。ちょうど利常卿が江戸から金沢へ久しぶりに帰城している時でした。個人的な意見ですが、姉の死に直面して心境の変化が利常卿の中にあったのかもしれません。

裏千家監修による改修


撮影:2016.12.23
 元禄元年(1688)、加賀前田家五代当主・前田綱紀卿は裏千家家元・千宗室(仙叟)に玉泉院丸庭園の作庭を命じます。その頃の玉泉院丸には厩が設けられていましたが、それを破却。跡地には御亭「花塢」築きます。同年九月下旬には露地や御亭が完成しました。千宗室はその後、拠点を金沢から京都へ移すため、この庭園改修が金沢における最後の大仕事だったのかもしれません。

庭園の終焉と復活

 玉泉院丸の庭園は、その後大きな変化を迎えることなく明治維新を迎えます。維新後、金沢城版籍奉還廃藩置県を経て、加賀前田家から兵部省(後に陸軍省)へと所有者が変わります。玉泉院丸も、当初は「お雇い外国人」の一人であるオランダ人医師スロイス(Sluys, Pieter Jacob Adrian)の住居が設けられました。スロイスが去ったのち、帝国陸軍によってかつて庭園であった場所に露天馬場や厩などが設置されます。第二次世界大戦後、金沢城の大部分には国立金沢大学、玉泉院丸には石川県のスポーツ施設が設置され、往時を忍ぶものは何も無い状況でした。
 転機が訪れるのは平成18年(2006)。石川県が金沢城復元整備計画の第二期整備計画を策定し、短・中期の整備事業の一つとして玉泉院丸庭園の調査検討を進めることにしました。平成20年(2008)には金沢城跡主要部分について国の史跡に指定されます。同年、玉泉院丸にあった石川県体育館は閉館し解体。解体工事と同時並行で玉泉院丸の調査が進められました。玉泉院丸庭園にとって幸いだったのは、帝国陸軍によって行なわれた整地によって大半の部分が土によって埋められたことでした。この土によって、その後建設される体育館の基礎工事でも、庭園部の遺構が破壊されずに残されていました。発掘調査の結果や絵図、文献、その他事例等を参考にしながら、平成25年(2013)に庭園の再現工事が始まりました。発掘された遺構は保存のために2m程度の盛土を行い、その上に庭園を再現しています。こうして、明治時代より廃絶を惜しまれた庭園は復活したのです。

加賀前田家のプライベート空間

 饗応に用いた兼六園と比べて、玉泉院丸庭園は加賀前田家のプライベートな空間だったと考えられます。

色紙短冊積石垣


撮影:2016.12.23
 玉泉院丸庭園で特筆すべき部分が、この色紙短冊積石垣。通常の石垣とは違う、正方形や縦に置かれた長方形の石による石垣です。赤や青の石を用いることで、色のアクセントを付けると共に、石を縦に積む石垣は人々を驚かせます。近くでみるとよく分かりませんが、遠景から観ると、まっすぐに流れ落ちる滝をイメージした枯滝石組であることが分かります。城内の庭園という特徴を活かしたこの造りは、他に例がありません。

撮影:2016.12.23

段落ちの滝


撮影:2016.12.23
 発掘調査によって滝石組の形状も明らかになりました。今回の庭園整備では、遺構を2m埋め戻した上で新たに発掘調査の結果を反映させて滝石組の再現を行っています。この再現により、前述の色紙短冊積石垣との連続性が図られ、見事な景観が復活したのです。

三つの中島


撮影:2016.12.23
 玉泉院丸庭園には、大・中・小の中島があります。その内、小の中島は少なくとも文政年間(1818〜1831)に描かれた絵図より表れるため、後に造られた島と推定できます。それぞれの島の護岸には石組が用いられていますが、比較的大人しいものです。

撮影:2016.12.23
 少し気になったのが、この写真中央付近にある三つの景石たち。見ようによっては三尊石組のようにも見えます。

 再現されて間もない玉泉院丸庭園。兼六園と並ぶ、新たな名所として注目されてほしい庭園です。

参考文献

石川県金沢城調査研究所(2010.03)『金沢城跡石垣修築工事報告書 -玉泉院丸南西石垣- (本文編)』
石川県金沢城調査研究所(2015.03)『金沢城跡 -玉泉院丸庭園I-』
北國総合研究所(2010.12)「北國総研自主研究 金沢城玉泉院丸 1」『北國TODAY』
北國総合研究所(2011.06)「北國総研自主研究 金沢城玉泉院丸 3」『北國TODAY』
北國総合研究所(2011.09)「北國総研自主研究 金沢城玉泉院丸 4」『北國TODAY』
田治六郎(1942.06)「前田利常の作庭と那谷寺庭園」『造園雑誌』
重森三玲(1943.07)「賢庭一派の作庭手法」『史迹と美術』
石川県(1939.03)『石川県史 第二編』
石川県美術館(1976.10)『前田利常展』