まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

甘泉園公園

庭園情報


撮影:2016.04.27

学問と庭園


撮影:2016.04.27
 平成29年(2017)5月、早稲田大学で開催されたある学会の昼食休憩中、一人、大学に程近い「甘泉園」に向かいました。雨が降り続く中、一人佇みながら観る「甘泉園」は、得られた知的興奮を静かに醒まし、そして理解を促進させます。かつて、「水戸烈公」こと水戸徳川家第九代当主、徳川斉昭が学問の府「弘道館」と共に「偕楽園」を整備しました。雨の音を聞きながら、「水戸烈公」の意図がこの時初めて分かった気がします。

元は大名屋敷、そして子爵の邸宅


撮影:2016.04.27
 元々、この地は元禄年間(1688〜1703)まで百姓地でしたが、宝永年間(1710)頃に尾張徳川家の拝領地として召し上げられました。その後、屋敷地の相対替や上地にされた後、明和年間(1764〜1771)に御三卿の一つ、清水徳川家下屋敷地になりました。恐らく、この頃に現在の「甘泉園」の基礎ができたと思われます。
 明治維新後もこの屋敷地は清水徳川家が所有していましたが、明治30年頃に相馬子爵家が所有するようになりました。現在見られる庭園は、恐らくこの頃に整備されたと思われます。そして昭和13年早稲田大学が譲り受け、以後は大学の手で保存されるようになりました。早稲田大学にとっての甘泉園について、小林氏は次のように記しています。

 爾来、此の庭は、早稲田の学生にとって、グラウンドでの体力強化の合宿に、林泉での静かな語らいに忘れ難い思い出を残す園となった。
小林安茂(1970.09)「甘泉園公園の記」『都市公園

荒廃させたのは行政の不手際


撮影:2016.04.27
 幸いにも、第二次世界大戦の被害も無く、引き続き早稲田大学の手で保存されていました。一方、東京都は敗戦後、都内の公園の再編すべく昭和20年代後半から昭和31年(1956年)にかけて調査を行いました。新宿区においては、帝国陸軍施設から転用される戸山公園の計画があり、それに包含する形の小公園として、早稲田大学所有の甘泉園が挙げられました。昭和36年早稲田大学理工学部増設の土地交換の関係で甘泉園の敷地を手放します。東京都が即座に買収できればよかったのですが、諸事情で遅れ、昭和43年(1968)に買収が完了しました(史料により年代に差異あり)。この間、今まで早稲田大学によって行われていた甘泉園の手入れが行われなくなり、急速に荒廃していくことになります。

撮影:2016.04.27

早稲田大学の手をはなれた頃から往時の名残りを止めていた庭も、手入れが行われなくなり、出入り勝手、近所の悪童共の遊び場と化し、飛び石は割られ、池の護岸や、中島に通ずる橋はくづれ落ち、四阿も基礎を残すのみとなって、かっての幽雅な面影は消え失せてしまった。
小林安茂(1970.09)「甘泉園公園の記」『都市公園

 東京都による買収後は旧来の地割、意匠を残しながら復旧と保存を図って現在に見られる景観となり、昭和45年(1970)に新宿区へ譲与、移管されることになりました。

小規模ながら独特な配置

園路


撮影:2016.04.27
 新目白通りから公園に入ると整備された園路が出迎えてくれます。無料開放されている公園とは思えない雰囲気です。

高低差がある池泉


撮影:2016.04.27
 この庭園の二つの池泉は高低差をつけた珍しい構図になっています。この高低差があることで、上段の池をより低い目線で眺めることができる工夫となっています。


撮影:2016.04.27
 庭園内には滝もあります。石組みは落ち着いた印象を与えるもの。庭園の由来にもなった湧水は、残念ながら枯れてしまったそうです。私が訪れた時も、一定時間ごとに流れるようでした。水量が豊富であったときは、どのような光景になっていたか興味深いです。

洲浜・中島


撮影:2016.04.27
 洲浜の上に小型の灯篭が設置され、庭園に合致した景観を構成しています。しかし、洲浜、中島とも雑草が多く茂っており、本来の美しさが損なわれている所が残念であります。ここが、無料開放している「区立公園」の限界なのかもしれません。
 洲浜をよく見ると、水面下にも続いているように見えます。かつては、湧水量が時間によって増減し、それによって景観が変化していたのかもしれません。

 行政の不手際とさえいえる、管理不十分による荒廃から立ち直った甘泉園公園。「区立公園」であるが故の限界を感じさせる所もありますが、それでも後世に末永く残してほしい庭園です。

参考文献

小林安茂(1970.09)「甘泉園公園の記」『都市公園
東京都新宿区教育委員会(1971.03)『新宿と庭園』