まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

賓日館

建築情報


撮影日:2018.09.24
名称:賓日館
旧称:二見館賓日館
用途:旅館 迎賓施設
設計:不明
竣工:1887年(増改築は1936年)
備考:国指定重要文化財(建築)および国指定名勝(庭園)

二見浦旅館街の顔として


撮影日:2018.09.24
 気持ちの良いそよ風。海からかすかに聞こえる波の音。歩き疲れた旅行客を癒してくれる環境が、ここにはあります。伊勢、二見浦の賓日館。夫婦岩に程近い場所に、今回紹介する建築があります。その完成度の高さゆえ、2010年に国の重要文化財にも指定されました。しかしながら、なぜこのような素晴らしい旅館がこの地にできたのでしょうか。その背景には、太田小三郎氏という一人の男の発案から日本全国を巻き込むことになった民間団体「神苑会」の存在抜きには語れません。

明治人のパラレルキャリア

 太田小三郎氏はもともと豊前国英彦山の出身です。元々は英彦山の執当職を代々継いできた鷹羽家の三男として生まれました。兄に尊皇攘夷運動に加わり処刑された鷹羽浄典がいます。小三郎氏自身も後に太政大臣内大臣を務める三条実美公の知遇を得ていました。維新成就後の明治5年(1872)、三条相国の用務により鳥羽へ向かいます。その途中で初めて伊勢の神宮を参詣し、その後に太田家の養嗣子になります。太田家は伊勢古市の三大妓楼の一つである備前屋を営んでいましたが、借金を多く抱えており家運が傾いていた時期でした。それを小三郎氏は10年あまりの歳月を費やして備前屋を見事に立て直しています。
 備前屋の立て直しにより名実とも地域の有力者となった彼は、パラレルキャリアとして神宮の尊厳と神聖を保持することに情熱を傾けることになります。その経緯については野村可通氏が次のように述べています。

 家運の挽回なり、後顧に憂が全くなくなると、小三郎はかねてから考えていた理想に向かって、いよいよ乗り出すことになる。(中略)
 彼の念願の宿志とは即ち、神宮の尊厳と神聖に参拝し、親しく神宮の現状をみた時から、おそらく敬神の念の厚い彼の脳裏に焼きついて離れなかったことであったにちがいない。
 当時の神宮は、神聖でなければならぬ宮域の中に汚い民家が入り込んでいて、どこまでが宮域で、どこからが民有地だか判然としないまま入居していた。
野村可通(1971.07)『伊勢古市考』p118


内宮・宇治橋 撮影日:2018.09.25
 内宮の宇治橋、その神宮側には神苑が広がっています。しかし明治の初めの頃には民家が並んでいたというのです。崇敬家であった小三郎は、神聖にして清浄であるべき宮域に民家があることにショックを受けたものと推定されます。また、民家で発生した火災が神宮本殿にまで延焼する危険性もありました。事実、江戸時代においても数度延焼した記録が残っています。彼は修養団体である「十七日会」中心人物の大岩芳逸氏と連携し、地域の有力者に神宮宮域およびその周辺の整備を説きます。その結果、三重県の石井県令、神宮の鹿島宮司などが賛同、「神苑会」を発足させることになりました。その後の神苑会は事業推進のため、皇族の有栖川宮熾仁親王殿下を総裁として推戴するなど、地元中心の組織から全国的な組織へと脱皮していきます。
 神苑会の事業計画については、谷口裕信氏が簡潔にまとめています。まずは発足当初の事業計画です。

 神苑会の事業が「第一着歩」、「第二着歩」、「第三着歩」の三段階で構想されていたことが分かる。「第一着歩」では内宮・外宮の神苑地整備を行い、そこに宝物拝観所や公園を置く。内宮の神苑宇治橋を渡った五十鈴川右岸、広さは約三町歩(約三ヘクタール)であり、外宮の神苑は田中中世古町(現、本町)〜豊川町〜岡本町にわたる宮域の北東部、広さは約四町六反歩(約四・五六ヘクタール)である。しかしいずれも更地ではなく、人家が前者には五〇戸あまり、後者にも八〇戸あまり立ち並んでいたため、当該地域の土地家屋の買い上げ=立ち退きを必要とする。
 「第二着歩」では神宮から離れた倉田山に苑地を造成し、そこに「歴史博物館」を建設しあるいは庭園を整備するという。この「歴史博物館」こそが後の徴古館につながるものであることに留意しておきたい。さらに「第三着歩」では、西行谷などの古跡名勝地を神苑の「別区」として整備するとしている。
谷口裕信(2012.11)「第七講 神苑会の活動と明治の宇治山田」『伊勢の神宮式年遷宮』p262-263

 しかし、全国的な組織へと脱皮する一方で肝心の寄付金の集まりが鈍い状態が続きました。募金状況を基に事業を見直した結果、内宮・外宮の神苑地整備と歴史博物館の建設に注力することになります。

神宮徴古館」 撮影日:2012.02.02
 明治22年(1889)に両宮の神苑が完成、明治24年(1891)に農業に関する専門博物館である「農業館」が外宮の神苑前に開館(明治38年に倉田山に移転)、明治42年(1909)に「歴史博物館」である神宮徴古館が開館、翌年には附属する庭園も完成しました。そして明治44年(1911)に神苑会は事業の目的を達せられたとして解散します。創設から23年。現在見られる伊勢の町は、志ある民間の主導によって「神都」に生まれ変わったのです。当初から神苑会の設立に深く関わった太田小三郎氏は、参宮鉄道(現在のJR東海参宮線)や山田銀行(現在の三重銀行の前身の一つ)の設立にも関わっています。神宮と伊勢の町の発展を願った彼の活動は、現在の伊勢にも大きな遺産として残されています。

予期せぬ成功となった、神苑会最初の事業


醉園居士小澤圭(1896.11)『伊勢両神苑及農業館畧圖』より「賓日館」 現在と違い玄関部が平屋になっている
 神苑会の事業の中で最初に実現されたのが明治20年(1887)2月に完成した賓日館でした。ここでお気づきかもしれません。じつは賓日館の建設、そもそも神苑会の事業計画には無かったものです。明治19年(1886)12月に急遽建設が決定し、突貫工事の末、驚異的な速さで完成しています。その背景としては当時の皇太后陛下(英照皇太后)の行敬が予定されていたためです。
 谷口裕信氏は「神苑会の活動と明治の宇治山田」でこう述べています。

神苑会は皇太后行啓を迎えるための賓日館の建設を、自らの事業を広く世に知らしめる絶好の機会ととらえ、積極的に推進したのだろう。
谷口裕信(2012.11)「第七講 神苑会の活動と明治の宇治山田」『伊勢の神宮式年遷宮』p267

 賓日館が二見浦に与えた影響について、菅原洋一氏は「二見旅館街と旅館建築」で次のように述べています。

(中略)賓日館は、皇太后の神宮参拝を直接の契機として着手された神苑会の最初の事業である。その整備は二見浦の観光地としての核を高め、二見浦が近代観光地として成長していく契機となった。
菅原洋一郎(2008.10)「二見旅館街と旅館建築」『三重県近代和風建築総合調査報告』p15


撮影日:2018.09.24
 もともと、夫婦岩のある二見浦は日の出の遥拝所として古くから知られていました。しかし、二見浦旅館街の前身ともいえる立石茶屋は嘉永元年(1847)で21軒と小規模な集落にすぎません。賓日館の建設は、明治15年(1882)に日本初の海水浴場に指定されたことと合わせ、二見浦が近代的な観光地として飛躍するきっかけになったのです。

撮影日:2018.09.24 歴代皇族方のご宿泊の記録
 建築の完成度の高さ故か、皇太后陛下の行啓の後も多くの皇族がこの賓日館を訪ねています。特筆すべきは、明治24年(1891)7月から8月にかけての三週間、皇太子殿下(後の大正天皇)が神宮参拝と避暑を兼ねてご滞在されたことです。殿下にとっては初めての長旅になる行啓となりました。『大正天皇実録』では賓日館でのご滞在中について、次のような記述が残されています。

 御淹留中の御日課は海水浴を主とし、毎朝凡そ二時間御学習後、之を行はせらる。其の他、水泳・武術・幻灯等御見学の事屡〻あり。
 海水浴は午前十時及び午後二時前後を期し約三十分を限度とせらる。此の地は遠浅にして且つ広闊なるを以て活潑に御運動あり、遂には浮袋等を用ひず浮游あらせらるるに至れり。
宮内省図書寮(2016.12)『大正天皇実録』p236

 これによると殿下はご滞在中、海水浴を主に日課とされていたこと、活発に運動されていたこと、そして最終的には浮袋等を用いずに泳ぐことが可能になったことが記されています。
 なお余談ですが、近年では昭和59年(1984)に礼宮文仁親王殿下(現在の秋篠宮文仁親王殿下)もご来館されています。

二見旅館街の先陣を切る存在に

 明治44年(1911)、事業計画を完了した神苑会は解散します。その際、当初から賓日館の管理を委託されていた隣地の二見館に売却します。その頃には二見浦には現在に見られる旅館街の原形が姿をみせつつありました。二見旅館街は賓日館を核として、明治42年(1909)の式年遷宮を契機として建設されたのです。

「朝日館」撮影日:2018.09.24

「いろは館」撮影日:2018.09.24

「麻野館」撮影日:2018.09.24
 そして昭和4年(1929)の式年遷宮に合わせ、多くの旅館が改築や大改装を実施しています。賓日館も例外ではなく、昭和2年〜11年(1927〜1936)と長期に渡り工事が行われています。この改修工事により玄関棟が1階建てから2階建てへと変わり、平屋客室棟を大広間棟へと立て直すなど大規模な改修・増築になっています。
 戦後も賑わいをみせた二見浦。しかし、二見浦を通らない近鉄線が伊勢・鳥羽方面のアクセスの主流になると打撃を被ります。「二見町観光客調査表」によると、近鉄鳥羽線が全線複線化された昭和50年(1975)に前年の約3割減(昭和49年:約400万人 昭和50年:約277万人)と落ち込み、その後回復することなく長期にわたって低迷を続けてしまいます。
 賓日館を所有していた二見館も平成11年(1999)に休業のちに廃業に至ります。下澤京太氏の取材では一時は取り壊しの話も出たそうです。

1999年、二見館の休業とともに閉鎖となり、取り壊しと鉄筋ビルの建設計画が発表されるが、取り壊しに反対する地元の有志をはじめ、多くの人々の地道な運動が功を奏し、2003年(平成15年)、二見町に寄贈され、資料館として生まれ変わることとなった。
下澤京太(2006.04)「時を超えて伝える“おもい” 賓日館」『道』p28

 取り壊しの危機も乗り越え、賓日館は平成15年(2003)に二見町(現伊勢市)に譲渡され一般公開されました。折しも二見町の観光客が最盛期の半分以下(約177万人)にまで落ち込んだ時期でした。しかし、その後は徐々に回復、式年遷宮があった平成25年(2014)に39年ぶりとなる400万人を超えるほどの盛況となりました。遷宮後も270万人から285万人あたりを推移しており、ようやく長期の停滞から抜け出そうとしています。今後も夫婦岩と並ぶ二見浦の顔として、大いに期待したい建築です。

重要文化財指定の近代和風建築

 平成22年(2010)、国の重要文化財に指定された賓日館。実際にどのような建築なのでしょうか。館内の説明文とともに見ていきます。

階段親柱の二見蛙


撮影日:2018.09.24
 館内に入ると、まず出迎えてくれるのは階段の親柱の上に乗っかっている二見かえるです。なにか優しい表情をしているのが印象的です。

 板倉白龍の彫刻と二見ガエル
 階段親柱に彫られている「二見かえる」の作者は板倉白龍です。(中略)
 この蛙は親柱と同じ楠の一木に彫られていて、後で取り付けたものではありません。親柱裏の刻銘「昭和11年」から、賓日館2回目の大増改築の最後に据えられたことがわかります。(後略)
 館内説明文より

翁の間


撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24
 二見蛙の階段を上がり、最初に入るのが「翁の間」。ここの部屋も十分広い空間があります。

 翁の間
 翁の間は大正期に増築された20畳と48畳の二部屋からなる中広間です。当初は大広間として利用されていましたが、昭和初期の大改修によって現在の「大広間」が増築されてからは中広間となりました。欅の一枚板を多用した立派な天井や障子の細工など中広間というにはもったいないほどの贅沢な空間となっています。
館内説明文より引用

大広間


撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24
 翁の間の次は大広間です。ここの空間は圧巻。広さ、豪華さ、その全てにおいて息を吞む素晴らしさです。

 大広間
 120畳式の大広間は、昭和5年(1930)に始まる賓日館2回目の大増改築で建築された代表的書院造の広間で、桃山式の折上格天井が特徴です。2〜2.5寸角の断面の格縁と呼ばれる部材で格子を作り、格子の間(格間)に正方形の板を張った天井を格天井と言い、その格縁を「亀の尾」と呼ばれる曲げ物にして折り上げた形式の天井を折上天井と言います。桃山時代に流行した天井形式なので桃山式天井とも言われています。格縁には木曽檜が使われています。また、格間の天井紙は型押しをしてから彩色し、金箔を置いたため見る角度によっては金箔が浮き出して見えます。
館内説明文より引用

御殿の間


撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24
 大広間の後は、御殿の間に入れます。大広間と違い、凛とした品のある雰囲気が感じられる部屋です。

 御殿の間
 御殿の間は明治20年(1887)賓日館創建当時からその構造は変わっていません。本間天井は珍しい二重格天井になっています。(中略)格子を二重にしたのは、皇室を迎えるに当たり格式を重んじる格天井により一層の格式を持たせることを意図したものです。
 床框は螺鈿の輪島塗です。螺鈿とは、貝殻の真珠光を放つ部分を研磨することで平らにして細かく切り、文様の形に木地に嵌め込んだ装飾を言います。
 広縁の天井は比較的脂文の少ない屋久杉で、広縁奥の化粧室の天井は寄せ木造りです。
館内説明文より引用

千鳥の間


撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24
 御殿の間の隣には千鳥の間があります。御殿の間と同じく、非常に品のある雰囲気が漂います。

 千鳥の間
 千鳥の間は明治20年(1887)賓日館創建当時からその構造は変わっていません。千鳥の間の床框は東南アジア原産の鉄刀木という木でできていますが、賓日館は基本的に国産の建築材だけで造られていますので、この床框も最初は欅を使っていて、その後傷みが激しくなったために傷に強い硬木に替えたのではないかと思われます。
 御殿の間側の壁が一部板張りになっていることから、もともと千鳥の間は御殿の間と襖で仕切られていただけで、御殿の間に賓客がご宿泊される時、お供の者や護衛の者の控え室であったと思われます。
館内説明文より引用

寿の間


撮影日:2018.09.24
 御殿の間の下にある部屋が寿の間です。訪問時は西行に関する展示が行われていました。

 寿の間
 寿の間は、明治20年(1887)賓日館創建当時からその構造は変わっていません。この部屋の最大の特徴は床挿しの天井です。天井板を下から支えるために用いる細い部材を竿縁と言いますが、竿縁は通常、床の間と平行してしつらえられることが多いのですが、寿の間のように竿縁が床の間に向けて配される造りを床挿しと言います。江戸時代中期以降は流行らなくなってしまった天井形式なので、現存している客間では非常に珍しい例です。
館内説明文より引用

客室


撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24
 大広間棟の下は客室になっています。かつては賓客のみならず、一般の方も利用することができた賓日館。旅館として現役だったころ見たかったと感じてしまうほど、居心地が良い客室です。

庭園


撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24

撮影日:2018.09.24
 賓日館の庭園は、国の名勝「二見浦」の一部としても指定されています。小規模ながらも回遊式の庭園であり、客室ごとに見る者の印象を変えさせてくれます。
 国の重要文化財に指定される際、文化庁文化財部は次のような評価をしています。

 旧賓日館は、明治二十年に神苑会によって建設され、平面構成を尊重しつつ、昭和前期の改修・増築を経た本館および大広間棟、または土蔵からなる大規模な旅館施設で、外観、内部とも優れた意匠を有する近代和風建築として価値が高い。また明治期から昭和戦前期にかけての建築技術や意匠の進展をよく示している点でも重要である。

参考文献

宇治山田市役所(1929.01)『宇治山田市史 上巻』
文化庁文化財部(2010.07)「旧賓日館」『月刊 文化財
三重県教育委員会(2008.10)『三重県近代和風建築総合調査報告』
谷口裕信(2012.11)「第七講 神苑会の活動と明治の宇治山田」『皇學館大学講演叢書 第135輯〜第142輯 伊勢の神宮式年遷宮
野村可通(1971.07)『伊勢古市考』
伊勢市産業観光部観光振興課『平成29年伊勢市観光統計【資料編】』(http://www.city.ise.mie.jp/secure/46695/29shiryohen.pdf 2018.11.21閲覧)
下澤京太(2006.04)「時を超えて伝える“おもい” 賓日館」『道』