まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

肥後細川庭園【人物編】

鳳台院夫人

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「肥後細川庭園の桜」 撮影:2019.03.31

 肥後細川庭園のキーパーソン、鳳台院夫人については、残念ながらあまり史料が残っていません。限られた史料から、その人柄を見ていきます。

玉名郡代中村恕斎が見た「夫人たちの帰国」

 当ブログ『肥後細川庭園 【歴史編①】』にて紹介した通り、鳳台院夫人は顕光院夫人と共に、文久二年~三年(1862~1863)にかけ江戸から熊本へ帰国します。彼女たちの帰国について、吉村豊雄氏は『幕末武家の時代相―熊本藩郡代中村恕斎日録抄― 下巻』で次のように記しています。

夫人たちの帰国

 玉名郡代中村恕斎は、文久三年(一八六三)に入ると、歴代の藩主夫人たちの通行を迎える。前年、大名の参勤交代の義務が大幅に緩和され、江戸永住を義務づけられていた大名の夫人たちも帰国できるようになる。この年の二月、顕光院、鳳台院、そして御前様があいついで帰国する。顕光院は現藩主慶順の父、斉護の夫人。鳳台院は現藩主の兄、慶前の夫人。ふたりは、嫁姑の間柄でもある。御前様は現藩主慶順の夫人。まず、顕光院・鳳台院、ふたりの未亡人が連れ立って帰国、二日おいて藩主夫人が帰国する。顕光院は広島藩主浅野斉賢の娘、益。鳳台院は宇土支藩主細川利用の娘、茂。江戸で生まれ育ったふたりには、初めての肥後である。

吉村豊雄(2007.12)『幕末武家の時代相―熊本藩郡代中村恕斎日録抄― 下巻』

 吉村氏のこの記述には、次の点に注目できます。

  • 細川兵部大輔慶前の正室であった。
  • 肥後宇土領主・細川能登守利用の娘である。
  • 名前は「茂」である。
  • 江戸で生まれ育った。
  • 肥後入国は、生涯で初めてだった。

 特に最後の2点は、この熊本帰国が、初めて江戸を出る旅であったことがわかります。

維新後の細川侯爵家の史料

 細川侯爵家が後年まとめた史料に、鳳台院夫人の熊本帰国についての記録が残っています。まずは江戸を出発するときの記録です。

十二月十八日顕光院夫人及び鳳台院夫人江戸を発して熊本に帰る

文久二年

〔尊攘録自筆状〕

 十二月廿三日江戸

立之雇正月六日着御物書下廻之内書抜

一顕光院様鳳台院様去ル十八日五半時之御供揃二而夕七時此御発輿御前様昨廿二日同刻之御供揃二而夕七時前被遊御発輿奉恐悦候

侯爵細川家編纂所(1932)『肥後藩国事史料 巻3』

  上記の文章によれば、文久二年十二月十八日に顕光院・鳳台院両夫人が共に江戸を出発したことが分かります。次に、顕光院・鳳台院両夫人が熊本へ向かう途中、京都の伏見に到着した旨の記録です。

正月十一日顕光院鳳台院両夫人伏見に着す

文久二年十一月ヨリ同三年二月迄

〔良之助様御上京中日記〕

 正月十一日晴

一顕光院様鳳台院様益御機嫌能段々御旅行今日伏見御茶屋に御着被遊御止宿候事

一右御着二付 良之助様今朝六半時之御供揃二而御機嫌御伺として伏見御茶屋に被成御出夜五半時被成御帰館候事

侯爵細川家編纂所(1932)『肥後藩国事史料 巻3』

 上記の文章によれば、文久三年一月十一日に京都の伏見に到着しています。その際、長岡良之助(もとは肥後細川家第十代当主・細川越中守斉護の六男、後の長岡護美卿)が両夫人のご機嫌を伺いに訪れています。最後に、熊本に到着した時の記録です。

二月十六日顕光院鳳台院両夫人熊本に着す

文久三年

〔機密間日記〕

 晴陰 二月十六日

一顕光院様 鳳台院様今朝六時之御供揃二而植木被遊御発輿九時過二丸御屋形に被遊御着候事

侯爵細川家編纂所(1932)『肥後藩国事史料 巻3』

 上記の文章によれば、文久三年二月に両夫人は無事に熊本城二の丸御殿に到着したと記録されています。つまり出発から約二カ月をかけて江戸から熊本へ移動したことになります。

再び、玉名郡代中村恕斎の記録

 肥後入国時の対応は玉名郡代中村恕斎も関わることになります。その時の様子については、吉村氏が次のように記述しています。

 顕光院・鳳台院は、肥後に入って山鹿で宿泊した。恐らく山鹿茶屋での宿泊。御茶屋に引かれた温泉で長旅の疲れを癒したことであろう。山鹿を出ると、広町(現鹿本郡鹿央町広)の善行寺で「御小立て」。ふたりは、この寺の庭が気に入り、しばし庭でくつろいでいる。その様子を住持がのちに恕斎に語っている。

『顕光院様には御剃髪にて、浅黄の御衣装にて、上には黒縮緬御紋附・御羽織召させられ候由、鳳台院様には御髪御茶せんにて、鼠色御紋附、御打かけを召させられ候て、恐れながら誠に御美麗在らせられ候由なり。』

 顕光院はすでに剃髪。鳳台院は、髪を下ろし、うしろに長く束ねている。住持は「恐れながら、誠に御美麗在らせられ候」と恕斎にもらしている。その美しさがしのばれる。ふたりは、ご機嫌に庭を歩きまわり、築山に毛氈をひいてくつろいだ。広町から熊本城下まで、あと五里。長く不安な旅も終わろうとしていた。

吉村豊雄(2007.12)『幕末武家の時代相 ー熊本藩郡代中村恕斎日録抄ー』pp.44

 熊本まであと五里の善行寺。そこで顕光院・鳳台院両夫人の様子を住持が中村恕斎に語っています。曰く、「恐れながら、誠に御美麗在らせられ候由なり」。

 熊本帰国からわずか10年あまり、鳳台院夫人は明治7年(1874)に亡くなりました。その後の熊本は、明治9年(1876)の神風連の乱明治10年(1877)の西南戦争・熊本城攻防戦の舞台になります。武士の時代が終焉を迎える場所の一つとなったのです。

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永嶌孟斎(1877)「鹿児島の賊軍 熊本城激戦図」『西南戦争錦絵』(国立国会図書館デジタルコレクション)

 次の記事は「歴史編②」、前の記事は「歴史編①」です。よろしければご参照ください。

zuito.hatenablog.com

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参考文献

  • 吉村豊雄(2007.12)『幕末武家の時代相―熊本藩郡代中村恕斎日録抄― 下巻』
  • 侯爵細川家編纂所(1932)『肥後藩国事史料 巻3』
  • 永嶌孟斎(1877)「鹿児島の賊軍 熊本城激戦図」『西南戦争錦絵』