まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

旧安田庭園【探訪編】

名園五十種

 以前、肥後細川庭園でも取り上げました『名園五十種』に、安田本邸の庭園が紹介されています。

大川端の安田邸は舊と備前候池田家の邸趾でその庭園の幽邃淸雅なるは夙に東都好庭家の稱讚嘖々たる所の一箇の名勝である、

近藤正一(1910)『名園五十種』p15

  『名園五十種』の著者、近藤氏が大きく持ち上げる旧安田庭園。文章のみの描写の為、今回も場所を推測しながら巡っていこうと思います。

心字池

玄關脇の露路門を這入れば大川の水を引き入れた廣々とした池が・・・・殆んど庭の三分の一以上を占て、

近藤正一(1910)『名園五十種』p15

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旧安田庭園」 撮影:2016.04.20

 『名園五十種』でも広い池だと紹介されている旧安田庭園。後に関東大震災では多くの人命を救ったとされる池となります。

屏風のような景観 

この池を繞れば杜や丘や築山が南から東の方にかけて屏風を立てた如くに構らはれ、その間には橋もあり、塔もあり又池の一角にさし出でたる洲崎の如き所もあつて長汀曲浦の樣、懸崖千尺の山腹を見るが如き状、景致は千變萬化である、

近藤正一(1910)『名園五十種』p15

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旧安田庭園」 撮影:2020.09.21

 庭園の北西部、潮入茶屋からの眺望は、近藤氏の記述の様に緑の屏風を立てたかのような光景が広がります。現在でも石塔や橋が残っており、当時の面影を感じ取れます。

護岸からの眺望

これを座敷から見たる所は東江州・・・・草津あたりから琵琶湖の一部を眺めたやうで彼の洲崎の突き出でたるは唐崎のそれの如く、彼方の築山に樹木の生ひ茂れるは鷲の太山をかたどれると聞く比叡山に似てその崖下の木立は大宮や橋殿のある所のやうに思はるゝ、若し此洋々たる池を止觀の海に比せば池の中島は竹生島のそれに譬へたい。

近藤正一(1910)『名園五十種』p15

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旧安田庭園 護岸からの眺望」 撮影:2016.04.20

 『名園五十種』に記載のある「座敷」が安田家本邸(当時)を指すのであれば、その眺めは現在の直線状に整備された護岸(あるいは、その奥にある刀剣博物館付近)からだと推定されます。確かに心字池の形は琵琶湖の形にも見えなくないように思えます。近江国をイメージして作庭したのが事実であれば、日本にある風景を再現しながら神仙蓬莱思想に則り作庭する、縮景を用いた庭園であることになります。

洲浜

歩を右手の小徑に移して(中略)それに續いて四五坪計りの小石敷いた洲濱のやうな所もあつて其所には一基の雪見形の燈明がある、

近藤正一(1910)『名園五十種』p15-16

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旧安田庭園 洲浜」 撮影:2020.09.21

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旧安田庭園 沢渡石」 撮影:2016.04.20

  護岸部から右手の園路を進むと、大型の雪見灯籠が設置された洲浜に辿り着きます。この洲浜は時間帯によっては水没する、かつての潮入庭園の光景を再現しています。

水門

傍に根生川石の橋が架つて彼方の岸に渡るべく、橋下は水ぬるみて大川の潮が緩かに出入りをして居る、

近藤正一(1910)『名園五十種』p16

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旧安田庭園 水門前の石橋」 撮影:2020.09.21

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旧安田庭園 水門跡」 撮影:2020.09.21

 洲浜からしばらく進むと、水門跡に辿り着きます。水門の前には石橋が架かっており、その奥に水門跡を確認できます。この水門はかつて隅田川と繋がっていましたが、水質悪化の為、現在は閉鎖。その機能を失いました。しかし、潮入の光景を再現するため、庭園北部の地下に貯水槽を作り、水位の変動を行っています。

高台

橋を渡れば道は次第に高うなりて漸く築山の上り口に成るのであるが築山といつても規模が大いなる爲に築いた者とは思はれぬ位、一抱えもある椎、樫、樅などが其処彼処に欝然と茂り立つて遠く之を望めば恰で一つの小山のやうである、

近藤正一(1910)『名園五十種』p16

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旧安田庭園 高台入口」 撮影:2020.09.21

 旧安田庭園の南端部は細長い高台となっています。水門前の橋を渡ってすぐの場所に高台への入り口があり、そのまま進むと森の中を歩いているような感覚になります。

太鼓橋

山を下だれば茲にも一枚の大橋・・・・幅が三尺に長さが二間以上もある石橋が架つて彼方の山岨に行くべく構はれ、

近藤正一(1910)『名園五十種』p16

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旧安田庭園 太鼓橋」 撮影:2020.09.21

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旧安田庭園 石塔と太鼓橋」 撮影:2020.09.21

 近藤氏の記述にある橋は、現在太鼓橋となっています。この太鼓橋は、『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』にて掲載されている関東大震災直後の写真から、少なくとも震災前には設置されていると考えられます。

駒止稲荷

道は再び低うなりて又高くなる所に石の鳥居の笠木が見ゆるは家の鎭守なり

近藤正一(1910)『名園五十種』p16-17

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旧安田庭園 駒止稲荷」 撮影:2016.04.20

 旧安田庭園内に駒止稲荷があります。近藤氏の記述では石の鳥居があったようですが、現在では 祠のみ。それでも旧安田庭園の守り神として鎮座しています。

中島

再び池邊に出で立てば池の水は更に廣く成り中島も全くその姿を變へて彦根あたりから見た竹生島ソツクリの樣となる、

近藤正一(1910)『名園五十種』p16-17

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旧安田庭園 中島」 撮影:2020.09.21

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旧安田庭園 中島」 撮影:2020.09.21

  駒止稲荷から池の方へ進むと、広い池に中島が浮かぶ光景を見ることが出来ます。園路を進めば景観が異なるように設計する、池泉廻遊式庭園の特徴がみてとれます。

今でも現存する庭園

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旧安田庭園」 撮影:2020.09.21

 近藤氏はむずびで、「佐竹邸の庭」(秋田佐竹家下屋敷「浩養園」)や、「松浦伯の蓬萊園」(平戸領松浦家上屋敷「蓬莱園」)と並ぶ、江戸時代からの数少ない庭園の遺構であるとしています。その「浩養園」「蓬萊園」は、関東大震災の被害などにより廃園となりました。現在まで残る旧安田庭園は貴重な存在と言えそうです。

 前の記事は「震災編」、旧安田庭園の最初の記事は「訪問編」となります。よろしければご参照ください。

zuito.hatenablog.com

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 参考文献

  • 近藤正一(1910)『名園五十種』