まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

隅田公園 水戸邸跡

庭園情報


撮影:2016.07.25

受難を切り抜けた日本庭園


撮影:2016.07.25
 都営地下鉄本所吾妻橋駅」から徒歩5分。浅草や東京スカイツリー等にも近いこの地に、かつて日本初の「リバーサイドパーク」を目指して整備された「隅田公園」があります。江戸時代以来、「墨堤の桜」として有名な隅田公園ですが、ここに立派な日本庭園があるのは、あまり知られていません。この日本庭園はもともと徳川御三家の一つ、水戸徳川家下屋敷にあった庭園を活用したものです。この由緒ある庭園は、どのような経緯で公開され、残されたのでしょうか。

水戸徳川家の隠れた名園

元は水戸徳川家下屋敷


「江戸切絵図 向嶋絵図」より現隅田公園付近を拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクションより)
 水戸徳川家がこの地に屋敷地を拝領したのが元禄六年(1693)になります。この土地は隅田川と源森川(現在の北十間川)の交差部に当たり、河川舟運にとって好都合な場所であることが分かります。また、この屋敷は本所と向島の境目にあたり、水戸徳川家にとって別荘のような存在でもありました。江戸時代を通じて水戸徳川家下屋敷として機能していましたが、明治維新後に政府により土地を接収されてしまいます。
 

水戸徳川家の本邸として


有馬寛(1943.3)『隅田川仰ぐ御蹟の由来』より「明治四十年頃の徳川侯爵邸略圖」
 再び水戸徳川家がこの地に戻るのは明治4年(1871)でした。中央集権への大転換と言える廃藩置県により、それまでの水戸藩知事を免ぜられ東京への移住を命じられます。その移住先として、かつて下屋敷地であった本所区新小梅町の土地を下賜されました。下賜された土地に建てられた屋敷は「水戸徳川家小梅邸」と呼ばれるようになり、後に最後の将軍である徳川慶喜公もしばしば訪れるようになります。
 小梅邸は、水戸徳川家にとって所縁の土地ではあったものの、江東地区共通の悩みである水害に悩まされます。大正時代に記された『梅邸史撮要』には次のように記されています。

明治維新後ノ小梅邸
明治四年辛未七月十四日廢藩置縣の令出つるや我十一代の藩公節(原文:竹冠に卽)公其の翌日を以て居を此に移さる其後定公伊太利風を採りて洋館(原文:館の旧字体)を設けしめられ明治三十年に至りて落成す
然るに邸内土地卑くして屢洪水の侵す所となるを以て土を盛り邸を新にする必要を生じ當公に至り明治四十五年五月之れに著手し大正二年九月に至りて竣工す今の日本館(原文:館の旧字体)是なり

隅田郷土文化資料館(1998.9)『将軍が撮った明治のすみだ 小梅水戸邸物語』より

 この記述によれば、水害対策として明治後期頃に土地の改良を行ない新たな屋敷を建築しています。現在みられる日本庭園の池泉は、少なくともこの頃の造園である可能性があります。なお、水害の問題は後々にも尾を引くことになります。

東京奠都後の花宴


撮影:2017.04.09
 水戸徳川家にとっての一大転機は明治8年(1875)の明治天皇の小梅邸行幸でした。勤皇で有名な家柄でしたが、幕末は内乱による混乱で主導権を取れませんでした。内部分裂の悲劇を味わった水戸徳川家にとって、明治天皇の小梅邸行幸が一つの区切りとなったのです。明治天皇は小梅邸にて義烈両公(徳川光圀徳川斉昭)の書や水戸徳川家に伝わる品々を天覧になり、水戸徳川家の尊皇の志に感銘をうけます。この行幸の際、明治天皇から下記の勅語と御製を賜っています。

 勅語
 朕親臨シテ光圀齋昭等ノ遺書ヲ觀テ其功業ヲ思フ汝昭武其能ク遺志ヲ繼キ益(原文:益の旧字体)勉勵セヨ

 御製
 花ぐはし櫻もあれど此やどの 世々のこゝろを我はとひけり

 この水戸徳川家小梅邸への行幸は、後に東京奠都後に途絶えていた宮中花宴の復活とも言われています。明治天皇はその後も水戸徳川家小梅邸へ六回行幸啓をされています。

日本初の「リバーサイドパーク」


有馬寛(1943.3)『隅田川仰ぐ御蹟の由来』より「隅田公園苑池(本所側)」
 大正12年(1923)9月1日、関東大震災の発生により小梅邸は灰燼に帰します。震災後、帝都復興が急務となりますが、その際、復興事業の一環として公園の役割が注目されるようになります。

 而して此處に注目すべきは、公園、廣場、庭園、河川等が防火壁となつて、猛火を防いだ事である。公園廣場等の防火壁帯が無ければ恐らくより以上の焼土と化したのであらう。卽ち全市六割の區域が焼失を免れたのは、一には公園、廣場等の効果が預つて力あつたと謂ふべきである。
 復興事務局(1931.03)『帝都復興事業誌 公園篇』

 震災発生時は避難所として機能した公園や広場ですが、帝国陸軍被服廠跡の広場では火災旋風が発生し、3万8千もの人々が亡くなりました。一方で近隣に所在する安田庭園や深川の清澄庭園、芝の芝離宮などでは多くの人々が火災から守られました。この事例は、単なる広場には無い、日本庭園の木々や池が人々を救ったと考えられる契機となります。帝都復興事業では三つの大公園(隅田公園錦糸公園・浜町公園)と52の小公園が設置されました。この震災復興公園の中でも隅田公園は面積が最大であり、日本初の臨川公園(リバーサイドパーク)として設計され注目と期待を集めました。計画の途中で水戸徳川公爵家の小梅邸跡も公園に含むこととされ、小梅邸の日本庭園が隅田公園として復元・保存されることになるのです。小梅邸の日本庭園をベースとして隅田公園の日本庭園として再整備されることになるのです(2021.06.13修正)。

理想が忘れ去られた戦後

 理想的な公園と思われた隅田公園ですが、その栄光は長くは続きませんでした。第二次世界大戦による米軍の無差別爆撃により、東京は再度焦土と化します。震災復興により復元された隅田公園の日本庭園も再度被害を受けます。その後、昭和20年代カスリーン台風、キティ台風による水害を受け、隅田川沿いに防潮堤が築造されます。この防潮堤の設置により、長年悩まされてきた水害からは開放されるものの、リバーサイドパークとしての魅力を一気に失ってしまいます。日本庭園にとっても隅田川との接続が失われ、池の水が滞留することになってしまいました。
 隅田公園の魅力を無きものに追いやったのが昭和46年(1971)の首都高速道路6号線の建設です。首都高速隅田公園内に建設する計画については東京と公園審議会により諮問されています。この審議会には帝都復興院公園課長として隅田公園造成に携わった折下吉延氏、造園当時東京市公園課長であった井下清氏も委員として参加していました。折下氏は「この地域は震災後の都市計画当時、大変苦心して作った公園です。震災の記念物であり、帝都復興の公園であるから審議会として意見を決める場合には反対せざるを得ない。このような計画は寝耳に水といったようなものです。」と批判します。結局井下氏が提案した修正案を基に首都高速は建設されましたが、かつての魅力はほとんど失われてしまいました。日本庭園も首都高速建設の際に南側の池が埋め立てられてしまい、規模が縮小してしまいました。
 昭和50年(1975)4月1日、隅田公園は東京都から墨田区台東区へと移管されました。昭和51年(1976)、墨田区側の隅田公園は区政30周年の記念行事として改修工事を計画しました。当時の隅田公園の日本庭園の様子が小山氏の論文に記されています。

(1) 改修基本構想
〇対象区域
 荒廃が著しかった広場と日本庭園の約33,000?(旧徳川邸跡)を主な対象とした。この区域は開園当初は日本庭園として築造されたが、その後庭園の東側部分に広場が設置され、また首都高速6号線の建設時に池の規模が縮小された。広場と庭園との境には何らの植栽も設置されなかったので、日本庭園の趣を損っている上に、永年の管理不足のため、池は釣り堀と化し、池の周囲の植え込みや芝生も踏み荒らされて荒廃していた。池の水は開園当初は隅田川の水を引き込んでいたが、高潮防潮堤の設置により水門は閉鎖され、滞留し汚水化していた。
〇改修方針
 庭園部分については、池の石組みは破壊されていないことなど、もともと芝生林泉の日本庭園として造成されたことなどを考慮し、現在地に日本庭園として改修する。
 休養広場については、区の行事などに利用されていたので、広場は災害時の避難広場を兼ね、現状の規模を確保して設置することとする。
〇釣り堀の設置
 日本庭園の池が釣り場と化し、つりを目的とする来園者が多い状況に照らし、公園内に別途釣り堀を設置し、日本庭園の池は純粋に観賞用とする。

小山季廣(1997.2)「隅田公園の整備について −都区移管とその後−」『都市公園

 こうして、時代の流れに翻弄されながらも、現在にも残る日本庭園が息を吹き返したのです。

逆境を乗り越え続けた名園


撮影:2016.07.25
 隅田公園を訪ねてみると、その潜在力の高さに驚きます。隅田公園といえば、隅田川沿いの桜並木があまりにも有名であり、日本庭園はあまり知られてはいませんが、多くの方にその存在を知って頂きたい庭園です。

中島


撮影:2016.07.25
 池の中央にある中島。よく見ると、「亀」のように見えます。日本庭園によく見られる不老不死を願う施主の気持ちが表れている石組です。

洲浜


撮影:2016.07.25

撮影:2016.07.25
 日本庭園の北端部には洲浜が存在します。石の配置から察するに、水面が上昇しても奥へ行くことができる構造になっているように見えます。残念ながら雑草等が生えてしまっているため、本来の美しさが損なわれてしまっていますが、ここから眺める庭園の景観は素晴らしいものです。

舟着


撮影:2016.07.25
 かつて、水戸徳川家小梅邸は日本庭園の西側(墨堤側)に存在していました。写真の右下にある石は、邸宅から日本庭園へ出る際に眺めることができたと思われます。更に舟で池を回遊できたのかもしれません。

現代の借景


撮影:2016.07.25
 開園当時と比べ、首都高速の開通や防潮堤の設置、建築物の高層化等で、かつての景観が著しく損なわれました。しかし、平成24年(2012)に東京スカイツリーが竣工し、日本庭園と不思議なマッチをしています。偶然できた借景ですが、今後も注目される景観でしょう。

明治天皇聖蹟の庭園


撮影:2016.07.25
 先述したように、明治天皇水戸徳川家小梅邸を行幸されています。それため、当庭園には明治天皇聖蹟を表す石碑が建てられています。かつては国指定史蹟であった隅田公園でしたが、昭和23年(1948)に指定解除されています。もし、この指定が残っていたならば、首都高速は確実に迂回や地下化等の検討がなされているでしょうし、池が縮小されるようなことも無かったはずです。かつての景観が失われている中、往時の歴史を辛うじて忍ばさせてくれる石碑です。

参考文献

有馬寛(1943.3)『隅田川仰ぐ御蹟の由来』
隅田郷土文化資料館(1998.9)『将軍が撮った明治のすみだ 小梅水戸邸物語』
明治神宮崇敬会『明治天皇 絵画と聖蹟「第13回 徳川邸行幸」』<http://sukeikai.meijijingu.or.jp/meijitenno/2301.html>(2017.06.14閲覧)
復興事務局(1931.03)『帝都復興事業誌 公園篇』
川本昭雄(1981.10)『隅田公園
小山季廣(1997.2)「隅田公園の整備について−都区移管とその後−」『都市公園