まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

東武ビルディング


撮影:2013.05.03

建築情報

名称:東武ビルディング
名称:東武鉄道 浅草駅
名称:松屋 浅草店
名称:浅草 EKIMISE
旧称:東武鉄道 浅草雷門駅
旧称:松屋 浅草支店
用途:鉄道施設、百貨店
設計:久野節
竣工:1931年

国際観光都市・浅草の玄関口

 東京・浅草。江戸随一の古刹、浅草寺が鎮座する浅草は、日本の地下鉄の始まりの地でもあります。その東京メトロ銀座線「浅草駅」に併設する「昭和の異空間」浅草地下街を通り過ぎ、地上に出ると目の前に白く細長いビルが文字通り「鎮座」しています。東武鉄道「浅草駅」です。竣工後80年以上が経過している建築ですが、数年前まで全く異なった、むしろ現代的な外観をしていました。改修工事により、過去の栄光を取り戻したように見える国際観光都市・浅草の玄関口、浅草駅。それはそのまま東武鉄道の歴史にもつながります。

繁華街浅草の象徴

 東武鉄道が浅草をターミナルとするまでには、紆余曲折の歴史があります。そもそも、東武鉄道の創立願には東京側の始点は総武鉄道「本所停車場」(現在のJR総武線錦糸町駅」)とされ、さらに越中島に至る支線も計画されていました。しかし、当時東京は「市区改正」が開始されており、越中島〜本所〜千住間がこの「市区改正」と密接な関係を持つため、政府が不許可とする方針をとってしまいます。結局当初の計画を変更し北千住を始点として1899年に開業しました。その後も、幾度か都心乗り入れの努力が続けられるものの、敷設予定地の急激な市街地化などで東武鉄道の「隅田川越え」の夢は頓挫し続けます。
 転機が訪れるのは、関東大震災でした。震災により「焦土と化した東京市内」(『東武鉄道百年史』より)に乗り入れを目指します。隅田川を超え、浅草花川戸町を経由して上野駅に至る路線の免許を申請します。残念ながら、この計画は既に地下鉄線の計画が存在していたため、浅草花川戸町までに制限されたものの免許は交付されます。東武鉄道にとって不本意ではあったものの、「浅草」という都心部についに進出を果たすことになったのです。しかし、駅の予定地はターミナル駅を建設するには狭小であり、隅田川にほど近く、橋梁との関係から駅直前でR100のカーブが必要となってしまうなど、立地条件は劣悪といえました。そして当時の根津社長により「繁華街浅草の象徴となりうるような立派な駅ビルを建築する」の方針が示されます。この状況に至り、東武鉄道は自社設計を諦め、駅ビルの設計を久野節氏に委託します。そして久野氏の設計を基に、1931年ついに開業したのです。
 長らく、東武鉄道のターミナルとして機能した浅草駅でしたが、戦後の地下鉄日比谷線との乗り入れにより、劇的な変化を引き起こします。今まで、北千住や浅草で他社線に乗り換えていた乗客は、日比谷線でそのまま都心に向かうようになったのです。これにより浅草駅はターミナルからローカル線化が進んでしまいました。浅草駅自身も1973年にアルミサッシで覆われるようになりました。
 往時の輝きを失った浅草駅に転機が訪れたのは、東京スカイツリーの開業でした。この開業に合わせ耐震工事と並行して外観を復活させることにしたのです。東京スカイツリーの開業に沸く浅草駅は、再び、栄光の時を迎えたのです。

アール・デコ建築のターミナルビル

 東武ビルディングの建築様式について、『東武鉄道百年史』には次のように記述しています。

 設計の基本は、当時流行したネオ・ルネサンス(近世復興)様式で、日本のアール・デコ建築のひとつにあげられている。
(中略)
 東武ビルディングは当時、哲学、美術、文学などの各ジャンルに流行したモダニズムの影響下に設計されており、柱間に整然と窓が並び、2階の駅部分にはアーチ形の大窓が17個、連続して並んでいるのが特色である。

 歴史主義がモダニズムと出会った結果生まれた「アール・デコ」は、幾何学的意匠が大量生産に向いていることから、大衆的な建築様式とされます。江戸の浅草寺から現代の東京スカイツリーまで、今昔ともに大衆で賑わう浅草にとってこのターミナルビルは、まさに復活したシンボルなのです。

参考文献

東武鉄道社史編纂室(1998.09)『東武鉄道百年史』
藤代孝一(2013.01)「「浅草駅ビル改修プロジェクト」の概要」『基礎工』(2013.01)