成田山の仁王池、その起源を探る
成田山の仁王池について、新勝寺が昭和43年(1968)に編纂した『新修成田山史』では「不詳」としています*1。
今回は様々な文献及び絵図から仁王池の成立時期を探ってみようと思います。
文献の記載
仁王池について、まずは文献での記述を確認していきます。国立国会図書館のデジタルコレクションでは、主に以下の文献で仁王池(またはそれに関連するもの)の記述が確認できました。
- 津田敬順(1813)『遊歴雑記 初編の中』
- 吉田銀治(1897)『成田山志』
- 石倉重繼(1903)『成田山名所図会』
- 吉田宇之助(1908)『風月余情』
- 成田圖書館(1911)『成田山通志』
- 佐藤󠄁一誠(1921)『成田山』
- 成田山開基一千年祭事務局(1938)『成田山史』
- 大本堂建立記念開帳奉修事務局(1968)『新修成田山史』
1. 津田敬順(1813)『遊歴雑記 初編の中』
『遊歴雑記』は、文化九年(1812)から文政十二年(1829)までに著者の津田敬順(十方庵敬順)が名所・旧跡を探訪した紀行文です。その中で「初編の中」では、次のように記述されています。
一、行人の垢離する瀧は、仁王門の内左の崖際に有、瀧の落口二筋有て、太き武州目黒の不動の瀧より細し、
活字:江戸叢書刊行会(1964)『江戸叢書 巻の3』p213
原文:津田敬順(1813)『遊歴雑記 初編の中』
『遊歴雑記 初編の中』の記述からは、次のことがわかります。
- 仁王門の左の崖際に、修行者が垢離(水行)する滝がある。目黒不動の滝よりは細い。
2. 吉田銀治(1897)『成田山志』
『成田山志』は、明治30年(1897)に吉田銀治氏によって記された書籍です。この書籍では、成田山についての解説が記されており、仁王池についても次のように記述されています。
門后に池あり 池の右岸上には銅龍の首べ崖腹より出でゝ水を吐かんとするもの及び各講社の石碑矗立し又左岸上こわれ不動堂前にハ唐銅の巨劍大理石の五重塔及び各講社の碑石林の如し 石橋を渡り石階三四級上れば唐󠄁銅の獅子左右に相對し石の燈籠四基あり 其階上を本堂の庭前となす
(一部新字体に変更、文中空白は筆者追記)
吉田銀治(1897)『成田山志』p4
仁王門池
仁王池ハ仁王門後に在る小池なり 寒水石を以て造れる欄橋を架し其色澤雪󠄁の如く甚た皎麗なりとす 池中には數多の龜游泳して人を恐れず岸上石階を挾める 左右は高くして仰き望むへく盡く奇巖怪石を以て疊み重層復積し其間に不動尊󠄁の石像智劍の塑型前󠄁鬼の塑型兩獅子左方にはこわれ不動幾度修覆するも忽ち破るゝを以て此名ありと云ふ大理石燈明臺及ひ銀杏の古木あり 其他各講社の碑石は矗々列立して其多き幾ど數ひ盡すべからす
(一部代用文字・新字体に変更、文中空白は筆者追記)
吉田銀治(1897)『成田山志』p23
『成田山志』の記述からは、次のことがわかります。
- 仁王門の後ろに池がある。
- 池の右岸には銅製の龍の首があり、そこから水が出ている。また、各講社の石碑も建てられている。
- 池の左岸には唐銅の巨剣や大理石の五重塔、各講社の石碑が立てられている。
- 池の中には亀が多く、遊泳している。
- 左右の崖は奇巌怪石で構成されている。
3. 石倉重繼(1903)『成田山名所図会』
『成田山名所図会』は、明治36年(1903)に石倉重繼氏によって記された書籍です。この書籍も成田山について解説しており、仁王池についても記されています。
仁王池
仁王門を入りて更に進めば右側には碧水をたゝへたる小池あり、俗に仁王池と稱し、野村定八等の持志によりて開きたるもの、池中には數多の龜游泳して人に慣れ、日朗らかなるの時は、巖石に上りて甲を暖󠄁む、中々に愛すべし。
寒水石橋
は仁王池の中央に架し、本堂に登る石段の前にあり、色澤純白にして皎麗なり、而してこの邊りより本堂に至る兩側は奇岩怪石を以て斷崕を爲し、其間には智劍の塑型燦然たるあれば、或は不動尊󠄁の石像あり、あるは前鬼の塑型、石獅子、又は諸講社の碑石層々として幷立し數ふべからず、就中、
こわれ不動尊󠄁
は有名なるものにして、寒水石の橋を渡り、左の小石階を登りゆく事十數段の處にあり、堂は明治三十二年五月高橋萬吉の寄進造營する處、⦅因に云 こわれ不動とは幾度修覆すれども忽ちにして破るゝを以てしかく名付けられたるなりと⦆
明王瀧
は明治三十四年十月御瀧講の寄進により出來へしものにして、懸崕高きところより落下する瀑の音は壯快いふ計りなく、巖上に立てる不動尊二童子は故尾上菊五郎の寄進なりと、
(一部新字体に変更)
石倉重繼(1903)『成田山名所図会』pp35-36
『成田名所図会』の記述から、次のことがわかります。
- 仁王池を進んで右側に小池がある。
- 仁王池は、野村定八氏の寄進によって作られている。
- 仁王池に架かる石橋から本堂に至る石段の両側は奇岩怪石で構成された断崖となっている。
- 断崖には智剣、不動尊の石像、石獅子、諸講社の石碑などが立てられている。
- 明王瀧は、明治34年(1901)に「御瀧講」の寄進によってできたもの。
4. 吉田宇之助(1908)『風月余情』
『風月余情』は、明治41年(1908)に吉田宇之助氏によって記された書籍です。この書籍の成田山の紹介時に、仁王池の様子が記されています。
⦅二⦆成田山
(前略)
始めて茲處に詣でたるものゝ先づ新らしく思ふは、境内に林立せる石碑なり、仁王門を入りて本堂に上るべき石燈の左右、仁王池のあるあたり、こわれ不動尊堂の立つ處、盡く碑林にして、其他境内到る處にあらざるなし、碑面の文字は皆金何百圓、何拾圓と刻めるもの、思ふに明王を渴仰して其の加護を得たる人々の建てたるものなるべし、
(一部新字体に変更)
吉田宇之助(1908)『風月余情』p28
『風月余情』の記述から、次のことがわかります。
- 仁王池には石碑が林立している。
- 石碑の碑面には「金何百圓」「金何拾圓」と刻まれている。
5. 成田圖書館(1911)『成田山通志』
『成田山通志』は、明治44年(1911)に私立成田圖書館(現・成田山仏教図書館)によって編集された書籍です。この書籍では、成田山新勝寺の当時の様子を解説しており、仁王池については次のように記述されています。
(二四)仁王池 寒水石橋
(前略)正門仁王門を入りて碧水を湛えたる小池あり。數多の龜子游泳し、巖上に曝す。此池を渡りて本堂に登るに、寒水石橋を架す、色澤愛すべし。
(一部新字体に変更)
成田圖書館(1911)『成田山通志』pp89-90
『成田山通志』の記述からは、次のことがわかります。
- 仁王門を進むと碧水を湛える小池がある。
- 池の中には多くの亀が泳いでいる。
6. 佐藤󠄁一誠(1921)『成田山』
『成田山』は、大正10年(1921)に佐藤一誠氏によって編集された書籍です。この書籍でも成田山新勝寺について写真も載せながら解説しています。
佐藤󠄁一誠(1921)『成田山』
■仁王池 仁王門を入りて進めば、碧水を湛へたる小池あり。池中には數多の龜子游泳し、時に巖上に甲を曝らす。俗に仁王池と稱す。
■寒󠄁水石橋 仁王池に架するところ、その色澤、純白にして麗はし。
■こわれ不動 寒󠄁水石橋を渡れば、左右皆、奇岩怪石を以て斷崖を爲す所、左の小石磴十數級󠄁にしてこわれ不動あり。精巧を極めたる小堂なり。幾たび修覆するも、忽ちにして破るゝを以て其名ありと聞けど、現在のものは明治三十三年の造營にして、四圍に金網を張りなどして破懷の防止に備ふ。
(一部新字体に変更)
佐藤󠄁一誠(1921)『成田山』p8
『成田山』の記述から、次のことがわかります。
- 仁王門を進むと碧水を湛える小池がある。
- 池の中には多くの亀が泳いでいる。
- 橋を渡ると、左右は奇岩怪石で構成された断崖になっている。
- 仁王池の左側の石組が大正10年当時からある。
7. 成田山開基一千年祭事務局(1938)『成田山史』
『成田山史』は、昭和13年(1938)に成田山開基一千年祭の記念事業の一つとして編纂された書籍です。
四 仁王門
(前略)
門の後方に瓢形の池がある。これを仁王池と稱し、中には信者によつて放生された幾百の魚鼈が群游してゐる。池に架した寒水石橋は明治十四年、照輪上人代に建設されたものである。
橋の袂に立つ靑銅黑塗金鬣の獅子一對は、六番な・ら・む・う・ゐ組の奉納で、嘉永三年九月二十八日の造立、作者は粉川市正藤原國信である。
これより三十三段の石階を登ると、本尊󠄁大聖不動明王を安置し奉る本堂に達するのである。石階の左右、數十丈の斷崖は盡く奇巖怪石を以てたたみ、其の間には、五世尾上菊五郎の奉納にかかる丈餘の靑銅の不動尊像、天明年間に設けられたる龍頭、全龍齋義道の作にかかる兩童子の尊像、各講󠄁の碑石等が立並んでゐる。
(一部新字体に変更)
『成田山史』の記述から、次のことがわかります。
- 仁王門の後方に瓢形の池があり、これを仁王池と呼んでいる。
- 仁王池には信者によって放生された魚鼈が群游している。
- 本堂に至る石段の左右の断崖は奇巌怪石で構成されており、不動尊像や龍頭、両童子の尊像や各講の石碑が立ち並んでいる。
8. 大本堂建立記念開帳奉修事務局(1968)『新修成田山史』
『新修成田山史』は、昭和43年(1968)に成田山新勝寺の大本堂建立記念事業の一つとして編纂された書籍です。
四 仁王門並びに仁王池
(前略)
門の後方に瓢形の池がある。これを仁王池と称し、其の中には信者によって放生された幾百の魚亀が群游している。
仁王池の橋は宝暦三年(一七五三)照峰上人代に京橋の上総屋善右エ門が奉納したことがあり、その折は白い寒水石造りであったが、後になって江戸消防記念会・松坂屋等によって現在の如き黒御影石のものが奉納された。
橋の袂に立つ青銅塗金鬣の獅子一対は、六番な・ら・む・う・ゐ組の奉納で、嘉永三年(一八五〇)九月二八日の造立で作者は粉川市正藤原国信である。
これより三三段の石階を登ると、本尊大聖不動明王を安置し奉る大本堂に達するのである。石階の左右一五・六メートルの断崖は尽く奇岩怪石を以てたたみ、其の間には、五世尾上菊五郎の奉納にかかる二メートル余の不動尊像・天明年間に設けられたる竜頭・全竜斎義道の作にかかる両童子の尊像・各講の碑石等が立並んでいる。
仁王池
仁王門の裏手にある。その広さは約一六〇平方メートルである。仁王橋によって左右に分れその右方には亀の形をした岩組があって常に数百匹の亀が休息或は浮遊している。
(中略)
この池の製作年代は不詳であるが、当山の文書によると野村定八等の奉納によって出来たものと云う。
江戸時代末期に左側の池の上に竜頭を作って水を吐かせ、これをお滝と称していた記録や図会がある。現在は右手の池の上方の岩組のところから清水が落下して滝となっている。
大本堂建立記念開帳奉修事務局(1968)『新修成田山史』pp111-115
『新修成田山史』の記述から、次のことがわかります。
- 仁王池の広さは約160㎡。
- 仁王橋によって左右に分かれ、右方には亀の形をした岩組がある。
- 仁王池の制作年代は不明だが、成田山の資料によると野村定八等の奉納によって出来たと言われる。
- 江戸時代末期に左側の池の上に竜頭から水が出て滝となっていたとの記録や図会がある。
絵図の様子
続いて、絵図を確認していきます。調べたところ、主に以下の絵図で仁王池が描かれていました。
1. 幽谷齋(1823改版)『総州成田山絵図』
『總州成田山繪圖』は、元禄十六(1703)年頃に描かれ、文政六年(1823)に改版された、成田山の境内の様子を写した絵図です。
仁王門の裏に、はっきりと池があったことがわかります。崖については、池の左岸部は不動尊像や剣が設置されている様子がうかがえますが、右岸部は石垣となっており、現在の様子とは少し異なるようです。また、左岸部の端には竜頭の口から水が出て滝のようにもなっています。なお、龍谷大学図書館のデータベースには改版前の絵図が掲載されています。それを確認すると、仁王池の部分は変更箇所が無い*2ことから、絵図が描かれた元禄十六年(1703)頃には、仁王池の後ろに池があったのではないかと考えられます。
2. 國郷(1858)『成田山入佛供養生写之図』
成田山入佛供養生写之図は、安政五年(1858)に国郷によって描かれた錦絵です。
この錦絵からは、仁王池があること、周囲の崖が険しい石で整備されていることが分かります。また、数は少ないものの石碑と思われるものも存在していることが分かります。
結論
仁王池について、文献と絵図の記載内容を確認していきました。その内容からは、下記のようなことが言えるのではないでしょうか。
- 幽谷齋の『總州成田山繪圖』より、少なくとも元禄十六年(1703)までには新勝寺仁王門の後ろに池が造営されていた。
- 津田敬順の『遊歴雑記』より、文化十年(1813)では新勝寺仁王門の後ろに水行のための滝が設けられていた。
- 國郷の『成田山入佛供養生写之圖』より、安政五年(1858)までには仁王池の後ろにある崖は現在のような石が立ち並ぶ様子だった。
- 各文献より、明治時代までに仁王池は現在みられる景観が概ね整備されていた。
このことから、仁王池の起源は少なくとも江戸時代前期の元禄年間まで遡ることができ、江戸時代後期から明治時代までには現在みられる景観が整備されたものと推定されます。近世から近代にかけての人々の思いが、この景観を作ってきたかと思うと、感慨深いものがあります。