詳細な歴史は不明のまま
平成26年(2014)より始まった一連の整備工事が完了した現在でも、この庭園の詳細な歴史は不明です。現地の解説板には当地の歴史をこのように述べています。
大名の下屋敷から細川家へ
この地は、江戸中期以来旗本の邸宅となりました。
江戸末期には、徳川三卿のひとつ清水家の下屋敷となり、のち一橋家の下屋敷に転じ、幕末に肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷、抱屋敷となりました。
説明板や庭園の名称から、肥後細川家及び細川侯爵家の関係性が強そうであることが伺えます。過去の史料から検証してみます。
江戸時代の古地図から見る変遷
江戸時代の古地図から当地の変遷を見ていきます。現在、国立国会図書館デジタルコレクションにて次の三つの古地図を閲覧することができます。
順を追って見ていきます。
1.『牛込小日向音羽町辺場末絵図:寛保延享之頃』の当地の様子
寛保-延享年間(1741-1748)頃の様子を描いた『牛込小日向音羽町辺場末絵図:寛保延享之頃』では、「本庄和泉守」(美濃高富領主本庄家)、「小笠原山城守」(遠江掛川領主小笠原家)などの屋敷地であることが記載されています。
2.『牛込小日向音羽町辺場末絵図』の当地の様子
寛保ー延享年間の絵図から約100年後の天保十三年(1842)に描かれた『牛込小日向音羽町辺場末絵図』では、「民部卿殿」「民部卿殿抱屋敷」(一橋徳川家)、「松平駿河守」(伊予今治領主松平家)などの家名が記載されています。 現在の肥後細川庭園はちょうど「民部卿殿」、つまり一橋徳川家の屋敷地であったことが確認できます。
3.『江戸切絵図 雑司ヶ谷音羽絵図』の当地の様子
『牛込小日向音羽町辺場末絵図』から11年後の嘉永六年(1853)に描かれた『江戸切絵図 雑司ヶ谷音羽絵図』では、「細川越中守」(肥後細川家)と記載されています。
このことから、天保十三年(1842)から嘉永六年(1853)の間に屋敷地が一橋徳川家・伊予今治領主松平家から肥後細川家へ変わったことが分かります。
起源は一橋徳川家か、それとも肥後細川家か
現在の庭園の様子から、石組が非常に大人しいことから、江戸時代後期から幕末期での整備が推測されます。よって、その時代の主である一橋徳川家か肥後細川家のいずれかが、庭園の施主であると推測できます。
一橋徳川家の可能性は・・・
天保期の『牛込小日向音羽町辺場末絵図』では、神田上水(現在の神田川)沿いの道に一橋徳川家の屋敷地が面しています。通常、絵図の文字の向きにより門の位置が分かるようになっています。したがって、現在の肥後細川庭園の低地部にも神田上水沿いの道に門があったと考えられ、現在地の立地上、屋敷の建屋や庭園も存在した可能性があります。しかし、残念ながら屋敷図等は現在のところ残されておらず、確たる証拠はありません。
肥後細川家による整備が有力か
一方、原史彦氏は『歩く・観る・学ぶ 江戸の大名屋敷』で肥後細川家による整備として、次のように述べています。
神田川が目白台地を削る段丘地形を生かして造られた池泉回遊式庭園である。庭園は、細川侯爵邸の遺構で、邸宅は明治天皇の行幸を仰ぐため、明治25年から28年(1892~1895)にかけて建造された。庭園も同時期に整備されたと思われる。
この地は江戸後期から細川家が所有し、3782坪の拝領屋敷を中心に、7595坪の抱屋敷、但馬豊岡藩京極家からの借地2000坪や、その他の借地1357坪を併せて約1万5000坪の屋敷を構えていた。ここには10代斉護の長男・慶前の未亡人・鳳台院の御殿が設けられていた。慶前は、嘉永元年(1848)、家督を継ぐ前に亡くなっており、鳳台院が居住したのはこれ以降と考えられる。
原史彦(2011.12)『歩く・観る・学ぶ 江戸の大名屋敷』
原氏の記述によれば、現在の肥後細川庭園の土地は鳳台院夫人のために設けられた御殿があったとされます。原氏は肥後細川庭園について明治期の整備と推測していますが、明治天皇行幸の前に書かれた地図にも現在とほとんど変わらない池が描かれています。このことから、明治以降に改修がなされているものの、私は鳳台院夫人の御殿に付随するように整備された庭園が起源であると推測します。
作庭時期は鳳台院夫人の熊本帰郷前
仮に、肥後細川庭園は鳳台院夫人のための整備であるとすれば、おのずと作庭時期が推測できます。
鳳台院夫人は文久二年(1862)、「文久の改革」と呼ばれる一連の改革の一環として行われた参勤交代の緩和により、江戸から熊本へ帰ることになります。
さんきんこうたい 参勤交代
(中略)幕末期、内外情勢の緊迫化に伴い、文久二年(一八六二)には一橋慶喜・松平慶永らの幕政改革によって、大名は三年に一年または百日の在府、その妻・嫡子とも在府・在国自由となった。
鳳台院夫人が目白台の下屋敷に移り住んだ時期は、夫に先立たれた嘉永元年(1848)以降となります。そして鳳台院夫人が江戸から熊本へ帰る時期が文久二年(1862)となります。そのため、肥後細川庭園が鳳台院夫人のための庭園であった場合、嘉永元年(1848)から文久二年(1862)までに作庭されたと推測できます。
錦絵から見る、庭園付近の様子
歌川広重の代表作『名所江戸百景』は幕末の江戸の様子を描いています。その一つ『せき口上水端はせを庵椿やま』(安政四年・1857)は、現在の肥後細川庭園に隣接する芭蕉庵や椿山荘付近を描いています。
錦絵に描かれている建屋が芭蕉庵であり、肥後細川家下屋敷はその奥にあります。当時神田上水を挟んだ南側は「早稲田」の名のごとく、田畑が広がる風光明媚な場所であり、別荘の役割を持つことが多い下屋敷には絶好の場所と言えます。
鳳台院夫人が眺めていたであろう庭園や風景から、彼女は何を想いながら余生を過ごし、そして江戸を離れていったのか。確実に言えるのは、現在の肥後細川庭園は彼女の気品が感じることができる場所であることだけです。
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