名園五十種
明治43年(1910)に出版された『名園五十種』に細川侯爵邸の庭園が紹介されています。前半に洋館・和館の庭園(関東大震災で焼失)、後半に現在の肥後細川庭園と思われる庭園が記述されています。文章のみの紹介のため、場所の推測を行いながら巡っていこうと思います。
入口
若し東南の隅の木立の下の露地門を彼方に出づれば景容は全く一變して眞の山路に入りたる如き趣がある、
近藤正一(1910)『名園五十種』pp.119
現在の肥後細川庭園の南門は平成28年に新設されたものです。そのため『名園五十種』が記された明治40年代の「東南の隅の木立の下の露地門」については明確な場所がわかりません。現在の敷地から推定すると、永青文庫と繋がる石門付近と考えられます。この石門については現地の解説板に、次のように記述されています。
この先にある石の門は、細川家ゆかりの地 熊本の妙解寺から運ばれたもので、「直透」と書かれています。これは、禅語「直透萬重関不住青霄内」から取ったものです。
現地解説板より引用
「直透萬重関不住霄内」とは禅語の辞典では「万重の関門を突き破って、さらに蒼穹の上へも超え出ている」(『新版 禅学大辞典』)「師の宗旨をことごとく知りつくしたが、その宗旨の中にとどまってはいない。独特の生活を創造しているの意」(『禅語辞典』)と記されています。
土橋
門外は岸高き谿を隔てゝ彼方の山に對し、萩の枯枝以て勾欄となせる風雅な土橋が架つて橋の彼方には又一つの半蔀形の小門がある、
近藤正一(1910)『名園五十種』pp.119
現在、肥後細川庭園で土橋とは大池と中池を隔てる役割を果たしている橋を指します。名前は土橋ですが、現在は擬木の橋となっていおり、勾欄(欄干)も設けられていません。引用文の「土橋」がこの橋を指すのかは不明です。
崖沿いの園路
左右の崖は杉檜が森々と立並んで恰で箱根山中の谿間の様に似通ひ、山は一體に雑樹が生ひ茂つてその下に屈曲せる小徑が熊笹の茂みや石の蔭に沿うて付けられてある。
近藤正一(1910)『名園五十種』pp.119
名園五十種の作者は「箱根山中」のようだと表現しています。確かに、現在においてもとても東京都区内にあるとは思えない、山路のような光景が広がります。
平坦の地
稍上りたる十坪程の平坦の地には藤棚があり下にニ三のベンチが置かれたるは園遊會などの折に模擬店でも設けらるゝ所だと云ふ、
近藤正一(1910)『名園五十種』pp.119
現在の肥後細川庭園に藤棚は残されていません。いくつかの場所にベンチを設けられている広めの園路があります。明確な場所はわかりませんが、ここで細川侯爵家の園遊会が行われていたと思うと、華やかな光景が思い起こされます。
滝
木下闇に似たる山蔭の小徑を南に下り行けば松紅葉の枝を交せる木の間に白布を懸けたる如き一條の飛瀑が落て居る、
これは侯爵家舊藩地の何とか云へる名勝の様を寫されたるものだとか、
水は小笹を茂れる岩間を流れて前の蓮池に注ぎ入る、
近藤正一(1910)『名園五十種』pp.119-120
肥後細川庭園には3つの滝が造られています。この引用文の「一條の飛瀑」はどの滝を指すのかは不明ですが、いずれも小規模ながら落ち着いた印象を受ける滝になっています。なお、引用文には旧領地である肥後・熊本の滝を模して作られたと記されていますが、どの滝か気になるところです。
『名園十種』が記されてから所有者の変遷もあり、様々な部分で変化が見られます。しかし、それでも現在の私たちに魅力を伝え続けています。
前の記事は「歴史編③」、肥後細川庭園の最初の記事は「訪問編」です。よろしければご参照ください。
参考文献
- 近藤正一(1910)『名園五十種』