まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

旧安田庭園【歴史編①】

文献から見る屋敷地の由来

 旧安田庭園は他の例に漏れず、元は大名家の屋敷地でした。

 庭園の入り口にあるパネルには次のように記載されています。

沿革

 この地は元禄四年(一六九一)、後の常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は、宗資が築造したと伝えられている。

 また、亀田氏の論文(1997)には次のような記載があります。

 旧安田庭園の所在する墨田区横網1丁目12番1号は、「御府内場末往還其外沿革圖書」によると、江戸時代の延宝年間(1673~81)では名前不詳の抱屋敷となっている。室又四郎未完の「江戸藩邸沿革」によると、この地は、元禄4年(1703)(原文ママ)2月桂昌院(将軍家光の正室・綱吉の母)の実弟原文ママ)で後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資(1629~1699)が下屋敷(本所石原邸)として拝領している。本庄宗資は桂昌院の縁者として異例の出世を遂げた大名として良く知られている。

亀田駿一(1997.02)「文化財庭園 名勝 旧安田庭園について」『都市公園

  一方、『徳川実紀』には次のような記述があります。

常憲院殿御實紀卷巻廿六

元祿五年十一月

〇十一日本庄因幡守宗資が邸にはじめて臨駕あり。少老内藤丹波守政親。御側仙石因幡守久信はじめ兩番小十人。徒頭各隊下を具して供奉す。目付もまかる。  桂昌院殿もおはしませばその方の人々も多く供奉す。因幡守宗資に左定吉の御刀。綿三百把。岩泉といへる駿馬一疋 三種二荷給ひ。また御盃下さるゝとき、二万石益封せられ。常陸國笠間城賜はる旨而命じ給ふ。(後略)

経済雑誌社(1904.05)『徳川実紀

 上記の3文献から、旧安田庭園の土地について次のことが分かります。

  • 延宝年間(1673~1681)は抱屋敷(拝領者不明)となっている。
  • 元禄四年(1691)、本庄因幡守宗資が下屋敷地として拝領した。
  • 本庄因幡守宗資は桂昌院の弟である。(但し実弟かは諸説あり)
  • この庭園は、本庄因幡守が築庭したと伝えられている。
  • 元禄五年(1692)、本庄家屋敷が五代将軍徳川綱吉公の御成という栄誉に浴する。

 元禄五年(1692)の御成の行先が、下屋敷であったかは不明です。しかし、前年に別荘・接遇用とされる下屋敷地を拝領していることから、御成の行先は下屋敷であっても不思議ではありません。

 では、庭園があった場所の様子を江戸時代の古地図から見てみましょう。

江戸時代の古地図から見る変遷

 肥後細川庭園と同様、江戸時代の古地図から旧安田庭園の変遷を確認します。旧安田庭園は本所に所在します。本所地区は明暦の大火後に本格的な開発が進みます。そのため、当地の様子も明暦の大火後から確認していきます。

  1. 『新板江戸外絵図』(寛文十一年・1671)
  2. 『江戸図方正鑑』(元禄六年・1693)
  3. 『分道本所大絵図』(正徳年間・1711~1716)
  4. 『分間延享江戸大絵図』(延享五年・1748)
  5. 『明和江戸図』(明和八年・1771)
  6. 『江戸實測図』(文化十四年・1817)
  7. 『江戸切絵図 本所絵図』(嘉永五年・1852)
1.『新板江戸外絵図』の当地の様子

 寛文十一年(1671)、明暦の大火(1657)後の江戸を描いた地図が『新板江戸外絵図』です。この時期はまだ空き地だったのか、空白となっています。なお、当地の北隣には「松平ハリマ」(水戸松平家)の屋敷があることが確認できます。

f:id:m00611108:20200404195030j:plain

『新板江戸外絵図 深川、本庄、浅草』より拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクション)
2.『江戸図正方鑑』の当地の様子

 元禄六年(1693)の様子を表したとされる『江戸図正方鑑』。文献では元禄四年(1691)に本庄因幡守が当地を屋敷地として拝領したと記されています。この地図では当地が「本庄因幡守」(のちの本庄松平家)の屋敷地となっていることが確認できます。

f:id:m00611108:20200404224607j:plain

『江戸図正方艦』より拡大抜粋(国際日本文化研究センター公開データベースより)
3.『分道本所大絵図』の当地の様子

 正徳年間(1711~1716)に作られたとされる『分道本所大絵図』。この地図では、当地が「松平豊後守」(本庄松平家)の屋敷地であることが確認できます。

f:id:m00611108:20200404222252j:plain

『分道本所大絵図』より拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクション)
4.『分間延享江戸大絵図』の当地の様子

 延享五年(1748)に、3.『分道本所大絵図』と同じ作者によって作られたのが『分間延享江戸大絵図』です。この地図でも、当地が「松平豊後守」(本庄松平家)の屋敷地であることが確認できます。

f:id:m00611108:20200405115713j:plain

『分間延享江戸大絵図』より拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクション)
5.『明和江戸図』の当地の様子

 明和八年(1771)、須原屋茂兵衛によって出版された『明和江戸図』。この地図では、「松平伊与」(本庄松平家)の屋敷地であることが確認できます。

f:id:m00611108:20200405121503j:plain

『明和江戸図』より拡大抜粋(国際日本文化研究センター公開データベース)
6.『江戸實測図』の当地の様子

 文化十四年(1817)、伊能忠敬らによって作成された『江戸實測図』。通称『江戸府内図』とも呼称されます。この地図からも、当地が「松平伯耆守」(本庄松平家)の屋敷地であることが確認できます。

f:id:m00611108:20200404180543j:plain

『江戸實測図』より拡大抜粋(国土地理院 古地図コレクション)
7.『江戸切絵図 本所絵図』の当地の様子

 嘉永五年(1852)に出版された『江戸切絵図 本所絵図』には、当地が引き続き「松平伯耆守」(本庄松平家)の屋敷地であることが確認できます。

f:id:m00611108:20200328215307j:plain

『江戸切絵図 本所絵図』より拡大抜粋(国立国会図書館デジタルコレクション)

 明暦の大火後の7つの古地図から、当地の様子をみてきました。古地図からは元禄六年(1693)以降「本庄因幡」「松平豊後守」「松平伯耆守」(本庄松平家)の屋敷地であることが確認できました。この地は将軍家より拝領以後、本庄松平家の屋敷地として幕末まで所有することになります。

 続きの記事は「歴史編②」、前記事は「訪問編」になります。

zuito.hatenablog.com

zuito.hatenablog.com

参考文献