まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

肥後細川庭園【歴史編③】

敗戦後の資産売却

 第二次世界大戦の敗戦は、華族たちにとっても厳しい立場に追い詰めました。特に最高税率が資産額の90%という財産税は華族たちの没落を決定づけるものでした。細川侯爵家も、次々と資産の売却を進めていきます。

 西武鉄道による買収

 昭和21年(1946)に制定された財産税を支払するため、旧皇族や旧華族たちは邸宅地の売却先を捜すようになります。ここに目を付けたのが、堤康次郎氏でした。

 戦後、康次郎の土地買い入れは、ほぼ池袋の東口と同時に旧皇族および旧華族の邸宅地から始まった(時期的には後者のほうが早い)。彼は、土地は広ければ広いほど利用価値が高いと考えていたから、旧皇族や旧華族が邸宅地の売却先を捜しているのをみると、都内でそれが実現できる好機と考え、その購入には躊躇しなかった。 

由井常彦・前田和利・老川慶喜(1996.4)『堤康次郎』pp.355

  堤康次郎氏の伝記から、次のことがわかります。

  • 戦後の堤康次郎氏の土地買い入れは旧皇族・旧華族の邸宅地から始まった。
  • 広い土地を都内で取得できることから、購入には躊躇しなかった。

 堤康次郎氏の狙いの一つは分譲地開発であり、もう一つの狙いはホテル経営でした。伝記では次のように語られています。

 開発と結びつけて、ホテルの建設は、戦後の康次郎の事業活動の大きな特徴ともなっていた。すでに戦前に軽井沢の千ヶ滝、南軽井沢、伊豆の大任温泉など観光地における旅館・ホテル経営に進出していた堤康次郎は、戦後いち早く昭和二十二年になると、「千ヶ滝プリンスホテル」のほか、伊豆・長岡における三菱の岩崎別邸を買収した三養荘や万座温泉ホテルを開業した。以後も、南軽井沢・晴山ホテルや箱根・湯の花ホテルといった観光地でのホテルを開業する一方、都内で旧皇族・旧華族の邸宅地を活用して旅館・ホテル業の経営を拡大した。国土計画は、二十七年当時で都内においてグリーンホテル(本郷)、旅館・細川(品川・目白)、旅館・松平(四谷)と四つの旅館・ホテルを経営していた(国土計画計画「会社経歴の概要」昭和二十七年七月一日現在)。旅館・細川は、いずれも旧細川侯爵邸で、前者が九一〇坪、後者が八四一八坪あった。三十年代に入って他社に転売されたり、分譲地となった。

由井常彦・前田和利・老川慶喜(1996.4)『堤康次郎』pp.360-361

 堤康次郎氏の伝記から、次のことがわかります。

  • 堤康次郎氏は戦前よりホテル建設の事業活動を行なっていた。
  •  観光地でのホテルを開業する一方、都内で旧皇族・旧華族の邸宅地を活用して旅館・ホテル業の経営を拡大した。
  • 昭和27年時点で、旅館・細川(品川・目白)を経営していた。
  • 目白の旅館・細川は8,418坪(約27,828平方メートル)であった。

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「肥後細川庭園 松聲閣(玄関部)」 撮影:2016.04.27

 この「旅館・細川」は米軍専用の旅館として使用されていたことが後の読売新聞、毎日新聞の記事によってわかります。

 文京区が配布しているパンフレット『松聲閣』では、昭和25年(1950)に西武鉄道神田川沿いの敷地を取得したとしています。

昭和25年 西武鉄道株式会社が、肥後細川庭園の敷地を含む一部の土地を所有。

文京区『松聲閣』(2019.03.31 配布)

 つまり、昭和25年において、西武鉄道神田川沿いの敷地を取得し昭和27年には旅館・細川を運営していたことが分かります。その後、昭和30年代に入り、細川侯爵邸自体も和敬塾へ売却することになりました。

 在日米軍大幅削減の余波

 西武鉄道により運営されていた「旅館・細川」に転機が訪れます。昭和32年(1957)に「岸―アイゼンハワー共同声明」で発表された在日米軍地上戦闘部隊の撤退です。

合衆国は、日本の防衛力整備計画を歓迎し、よって、安全保障条約の文言及び精神に従って、明年中に日本国内の合衆国軍隊の兵力を、すべての合衆国陸上戦闘部隊のすみやかな撤退を含み、大幅に削減する。なお、合衆国は、日本の防衛力の増強に伴い、合衆国の兵力を一層削減することを計画している。

1957年6月21日「岸信介首相とアイゼンハワー大統領との共同コミュニケ」(抜粋)

 この共同声明の重要な点は次の通りです。

  • 昭和33年までに、在日米軍の陸上戦闘部隊のすみやかな撤退を実行する。
  • 前述の陸上戦闘部隊を含め、在日米軍を大幅に削減する。

 在日米軍を相手に事業を行っていた人々にとっては、事業見直しの決断を迫る大きな決定になりました。いわば事業の前提が変わったのです。「旅館・細川」を経営していた西武鉄道も例外ではありませんでした。西武鉄道はこののち、「旅館・細川」の敷地の一部を分譲しています。庭園の存続は危機的な状況に陥ったのです。

東京都の都市公園再編

 同じころ、東京都では敗戦後に都内の公園を再検討行っていました。肥後細川庭園の対岸に位置する甘泉園公園の記事に当時の事情が書かれています。

三、都市計画決定

 一方、都では、終戦後都内の公園系統の再検討を進め、その配置について、大改訂を加えるべく、昭和二十年の後半より三十一年にかけて調査を行っていた。特に新宿区の此の周辺については、戸山公園という大公園計画を持ってはいたものの、これに包含せらるべき、近隣公園、小公園の予定地を物色中、たまたま神田川を挟む両台地に恰好な面積をもつ申緒(原文ママ)ある園地として、細川邸(現在の新江戸川公園)と此の甘泉園とが、適当でないかとの結論に達した。

 よって、昭和三十二年十二月、此の名園と樹林地を、公園地として活用すべく、都市公園計画として計画決定をしたのである。

小林安茂(1970.10)「甘泉園公園の記」『都市公園

 この記事では次のことがわかります。

  • 敗戦後、東京都による公園再編の検討を進めていた。
  • 昭和32年(1957)に肥後細川庭園(旧称・新江戸川公園)と甘泉園を新たな公園地にする計画を決定した。

 こうして、東京都が「旅館・細川」の買収へ進んでいくことになります。

東京都による一括買収

 昭和36年(1961)、東京都が西武鉄道から「旅館・細川」を一括買収します。当時の読売新聞には次のような記事が掲載されています。

老人にいこいの場

新江戸川公園、14日に開園式

老人向き公園とし都建設局が造っていた文京区高田老松町の新江戸川公園ができあがり“としよりの日”の前日の十四日開園式が行われる。この公園の敷き地一万九千平方メートルは江戸時代末までは細川家などの大名屋敷だったところで、戦後西武鉄道が所有して米軍相手のホテルを経営していた。米軍撤退後、西武が分譲しようとしていたのを都が三十四年に一括買収、公園施設にしていたもの。

 旧ホテルの建て物をそっくり“松声閣”とよぶ老人の休養施設とし、一階の無料休憩所には碁、将棋、テレビの設備があり、二階は有料の集会所としている。買収費をふくめて総事業費は二億二千三百五十万円で、池を中心とした純粋の日本庭園、わずかながらもわき水があるのは都内ではここだけ。

(後略)

『読売新聞』1961年9月9日朝刊9面「老人にいこいの場 新江戸川公園、14日に開園式」

 この記事の内容にはいくつかの注目すべき点があります。

  • 西武鉄道は当地を分譲しようとしていた。
  • 昭和34年(1959)に東京都が一括買収した。
  • 買収した敷地は19,000平方メートルであった。
  • 「旅館・細川」の建物は現在の「松聲閣」であった。

  買収した敷地面積が元の面積と比べ減っているのは、西武鉄道が既に一部分譲していたことによるものです。現在も、一部の敷地が分譲された痕跡が残っています。

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「肥後細川庭園 白虎石」 撮影:2019.03.31

 肥後細川庭園の正門の横に「白虎石」とみられる石が置かれています。元々は敷地内にあったのですが、西武鉄道の一部敷地が分譲された影響で、後に設けられた壁によって分断されてしまいました。宅地化の流れが寸前のところで食い止めることができた証拠といえます。

 こうして、在日米軍のみにしか利用されなかった「旅館・細川」は、一般国民にも気軽に利用できる「新江戸川公園」として再出発することになりました。いまも気軽に散策できるのも、保存へのタイミングがうまく重なったことによるものと言えます。私たちはこの幸運を感謝しつつ、現在までに残された肥後細川庭園を楽しみたいものです。

 次の記事は「探訪編」、前の記事は「歴史編②」です。よろしければご参照ください。

zuito.hatenablog.com

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参考文献

  • 由井常彦・前田和利・老川慶喜(1996.4)『堤康次郎
  • 文京区『松聲閣』(2019.03.31 配布)
  • 神奈川県(2007.8)『平成19年版 神奈川の米軍基地』
  • 小林安茂(1970.10)「甘泉園公園の記」『都市公園
  • 『読売新聞』(1961.09.09)朝刊9面「老人にいこいの場 新江戸川公園、14日に開園式」