庭園情報
- 名称:小石川後楽園
- 旧称:水戸徳川家上屋敷「後楽園」
- 旧称:大日本帝国陸軍 東京砲兵工廠
- 作庭:徳川家光、徳川頼房、徳大寺左兵衛、徳川光圀、朱舜水
- 完成:【一部完成】寛永六年(1629)、【完成】寛文期(1662-1671)
- 住所:東京都文京区後楽1丁目6-6
- 備考:国指定特別史跡及び特別名勝
東京を代表する都心の大名庭園
巷では「世界的名園」と呼ばれています。東京、小石川後楽園。庭園の名前が地名や駅名、遊園地、そしてかつての野球場の名称にも使われている、東京を代表する大名庭園です。元々は徳川御三家の一つ、水戸徳川家の上屋敷だった土地。三代将軍・徳川家光公や水戸徳川家の初代当主・徳川頼房卿、水戸黄門でもお馴染みである徳川光圀公等が作庭に関わった庭園。明治維新後は大日本帝国陸軍の東京砲兵工廠の敷地となり、外国人の接遇施設としても使われることで、世界的にも有名な庭園となりました。現在は東京都が管理し、一般に公開されています。
庭園の様子
現在の入口は、小石川後楽園が意図した本来の出発点ではありません。本記事は重森三玲氏が『日本庭園史大系』にて記した、本来の順路に沿って紹介していきます。この経路は中山道・木曽山中を抜け、近江の琵琶湖を臨みながら、京都へ到着する旅路を味わうことができる仕掛けにもなっています。
内庭
ここは厳密には「後楽園」ではなく、水戸徳川家上屋敷の内庭となります。かつては後楽園と内定の境目に唐門が設置され、明確に区分けしていました。後楽園と比べれば小規模ですが、よくまとまっている庭園です。東京ドームが近くにあるため、デーゲーム開催時はプロ野球の応援が聞こえてくる時があります。
木曽川・木曽山(棕櫚山)
内庭から唐門跡を抜けると、木曽川沿いを思わせる光景が広がります。渓流に沿って古木が生い茂る様子が木曽路を彷彿とさせることから名付けられました。シュロ(棕櫚)が多く生い茂っていたことから「棕櫚山」とも呼ばれていたそうです。
寝覚の滝
木曽山中の一角に「寝覚の滝」と名付けられた滝が設けられています。木曽川の名勝「寝覚の床」にちなむものです。
竹生島
木曽路を抜け、大泉水に至る所に、竹生島と呼ばれる岩島が設けられています。ちょうど大池泉と岩島の関係が琵琶湖と竹生島の構図となっており、縮景の一つとなっています。
大泉水
竹生島を過ぎれば、眼前に大泉水が広がります。これは近江国の琵琶湖を模した縮景であり、小石川後楽園の重要な景観を構成する池となります。
蓬莱島
竹生島から先に進むと、大泉水の中に蓬萊島が浮かぶ光景が見られます。蓬萊島は大小2島から成っており、亀の形をした島です。南の小島には印象深い徳大寺石があります。徳大寺石は板状の石で、滝の水落石と蓬莱石を兼ねたもの。後楽園独特の光景を作り出しています。また北側の大島は弁天島とも呼ばれ、弁天様の祠が設置されています。
龍田川
蓬萊島を右手に見ながら西へ進むと、龍田川の流れに出ます。紅葉の名所で知られる奈良・竜田川の縮景です。この時は青紅葉の時期に訪問しましたが、ぜひ、秋の季節も行ってみたいですね。
駐歩泉
水戸徳川家第九代当主、徳川斉昭公(水戸烈公)が西行堂側の流れについて、西行法師が残した和歌にちなみ「駐歩泉」と名付けました。石碑の碑文も水戸烈公の筆によるものだそう。
西行堂跡
水戸徳川家初代当主、徳川頼房卿の時代に西行法師の木造を安置したことから、西行堂と呼ばれるようになりました。残念ながら、第二次世界大戦時に焼失。現在は狛犬が主人の帰りを待つかのように佇んでいます。
一つ松
西行堂跡の先を進み、枝垂桜を過ぎると、対岸に一つ松が植えられています。この一つ松は近江の名勝の一つ、唐崎の松にちなむもの。威風堂々たる姿は立派の一言です。
渡月橋と大堰川
枝垂桜、一つ松、涵徳亭の先を西に進むと、渡月橋と呼ばれる土橋に到着します。眼前には浅く穏やかな大堰川が流れています。川の流れには小石が散りばめられており、小石川後楽園の中でも特筆すべき景観となっています。
西湖堤
渡月橋の南側には西湖が広がっており、そこに直線状の石橋、西湖堤が作られています。中国の名勝・西湖を模したもので、小石川後楽園の他に、旧芝離宮恩賜庭園、縮景園でも作られました。
屏風岩・琉球山
渡月橋を渡り切った所、大堰川の河原に屏風岩が置かれています。屏風のように板状の石が並べられているから屏風岩。重森三玲氏は『日本庭園史大系』で次のように述べています。
この附近には巨石の板石状のものが七枚組まれてあるが、いずれも五尺五寸(一六五センチ)高以下のもので、古くは樟の化石と称されていた。
重森三玲・重森完途(1974.09)『日本庭園史大系 18』p27
屏風岩の後ろには琉球山と呼ばれる築山が作られています。
清水観音堂跡
琉球山を上り、園路を進むと清水観音堂跡があります。かつては京都の清水寺の本堂を模写したお堂が建てられていましたが、残念ながら大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
通天橋
京都・東福寺にある通天橋にちなんで作られた橋です。朱色に塗られた橋は渓谷風の石組と周囲の緑にアクセントを与える存在となっています。東福寺に現存する通天橋というより、どことなく中国趣味をにじませている存在です。
音羽の滝
通天橋の横には立派な石組が存在します。かつては水を流れる滝となっていました。京都・清水寺の音羽の滝にちなみ名付けられています。元禄地震の際、水流が破壊されたことにより、現在では枯滝として石組のみ残されました。
得仁堂
通天橋を渡り、そのまま進むと得仁堂に辿り着きます。得仁堂は水戸徳川家第二代当主、徳川光圀公(水戸義公)が建てたお堂です。水戸義公が中国の故事、史記の「伯夷伝」を読み、感銘を受け、今までの行動を改め勉学に打ち込むようになったのは有名なエピソードです。
小廬山
得仁堂を南に行くと小廬山の山頂に出れます。山全体を熊笹に覆われた築山で、中国の名勝・廬山にあやかって名付けられました。園内でも有数の景勝の地です。
丸屋
得仁堂から園路を東へ進むと、丸屋に辿り着きます。腰掛茶屋として設けられたもので、田舎の素朴さを表しています。第二次世界大戦時に戦災で焼失し、昭和41年(1966)に復元されました。
円月橋
丸屋から園路を北へ進むと円月橋へ出ることができます。明から亡命した儒学者・朱瞬水が設計・指導したとされる石橋で、水面に映る橋のアーチ部が満月に見えることから名づけられました。
愛宕坂・八卦堂跡
円月橋から北東へ園路を進むと愛宕坂・八卦堂に到着します。京都・愛宕神社にちなんだ急坂です。最上段から見るとかなりの急勾配であることがわかります。愛宕坂を上り切ったところには八卦堂跡があります。元は水戸義公が文昌星の像を安置するために建てたお堂です。残念ながら大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
八つ橋
愛宕坂を降りたところの近くに、八つ橋が架けられた場所があります。伊勢物語に登場する三河国の八つ橋にちなんで作られた景観で、八つ橋の周囲にはカキツバタ(杜若)が植えられています。
稲田・菖蒲田
八つ橋を過ぎ、神田上水跡を渡ると稲田・菖蒲田が広がっています。水戸義公が嗣子・徳川綱條卿の夫人に対し、農民の労苦を伝えるために設けたとされます。為政者による自らの戒めと同時に田園風景を一つの景観として取り入れている実例です。類例としては岡山後楽園などがあります。目的は真逆ながらマリー・アントワネット王妃が田園生活を体感するため小トリアノン宮殿に「王妃の村里」という農村を模した集落を作らせた例もあります。現在は文京区の小学生が田植え、稲刈りを行っているそうです。
九八屋
稲田・菖蒲田から南下すると、九八屋という酒屋に出ます。こちらも第二次世界大戦時に焼失し、昭和34年(1959)に復元されました。九八屋を過ぎ、南へ進むと大泉水、そして唐門へ戻ることになります。
東京を代表する世界的名園。度重なる火災、震災、そして戦災による焼失、また都心部に位置することから、静寂な環境は幾分か損なわれていますが、いまなお、その輝きを失ってはいません。
参考文献
- 重森三玲・重森完途(1974.09)『日本庭園史大系 18』
- 進士五十八(2005.08)『日本の庭園』