庭園情報
明治東京を代表する庭園
明治の元老、山縣有朋公。長州毛利家の一家臣から、内閣総理大臣および元帥陸軍大将にまで登り詰めた軍人・政治家です。政党政治に否定的である等、どこか暗いイメージが付きまといますが、一方で昭和天皇からは軍人として名将の評価を得ている人物でもあります。そんな山縣公の趣味の一つが庭造り。その趣味が如何なく発揮された初期の庭園が、現在のホテル椿山荘東京の庭園です。椿山荘は山縣公から藤田男爵家、そして藤田興業・藤田観光へと所有者を変え、また大きく改変もされてきましたが、それでもまだ失われていない魅力が残っています。
庭園の様子
長松亭
長松亭は冠木門から入ってすぐにある茶室です。藤田興業時代に「電力王」とも呼ばれた松永安左エ門氏に設計を依頼、昭和29年(1954)に完成しています。
御神木
樹齢約500年と推定される庭園内最古の樹木。近くで見ると、その大きさに圧倒されます。焼失や枯死により園内の名木が失われた中、御神木は椿山荘の貴重な生き証人です。
聴秋瀑
聴秋瀑は幽翠池から流れ落ちる滝です。作庭当時からある滝で、山縣公が選定した椿山荘十勝の一つ。聴秋瀑のそばにある水車が、どことなく古き日本の原風景を思い起こさせます。
古香井
古香井は湧き水が自噴している庭園内の井戸です。こちらも作庭当時からある井戸で、山縣公が選定した椿山荘十勝の一つ。大正12年(1923)の関東大震災の時には被災者にこの井戸水が提供されたといいます。
十三重石塔
古香井の近くに十三重石塔があります。この石塔は織田有楽斎ゆかりのものとされています。
幽翠池
幽翠池は山縣公作庭当初からあった池です。山縣公が選定した椿山荘十勝の一つ。隣接している関口芭蕉庵の湧き水を水源としています。他の庭園でみられる「亀島」などの神仙蓬莱思想があまり感じ取れない、自然主義の池です。
五𠀋滝
五𠀋滝は藤田観光時代の昭和40年(1965)に完成した滝です。全体は段落ちの滝であり、上部が布落ち、下部は伝い落ちの組み合わせ。技術が進歩した時代ならではの大規模な滝です。なお、この滝の中に通路があり、滝越しから外を眺めることができます。
丸形大水鉢
三重塔の横にある丸形大水鉢は、元々京都市東山区の粟田口から山科に通じる日ノ岡峠にあったものとされ、藤田男爵邸時代に椿山荘へ移設したとされます。現在では隣の三重塔の手水鉢として活用されています。
般若寺式石灯籠
般若寺式石灯籠は三重塔の隣に設置されています。鎌倉時代後期に作られたとされます。由来となった般若寺にある灯篭は江戸時代の茶人や造園家からは「名物の灯篭」として人気を集めていました。しかし、後の研究で椿山荘にある石灯籠こそが原型となった灯篭であることが判明しました。
三重塔「圓通閣」
圓通閣は椿山荘内にある三重塔です。元々広島県の竹林寺にあった三重塔を大正14年(1925)に移築したもの。従来室町時代末期の建立と推定されていましたが、近年行われた改修工事での調査の結果、室町時代前半の部材が使われていたことが判明しました。藤田男爵邸時代の景観ですが、現在の椿山荘の核の一つになっています。
椿山からの眺望
現在は椿山と呼ばれる丘からは、早稲田の町並が見渡せます。現在は都市化されていますが、かつて江戸時代から明治にかけては田園風景が広がる景勝地でした。山縣公が見渡していたであろう光景が偲ばれます。
庚申塔・羅漢石
庚申塔は民間の庚申信仰に基づき建てられた石碑です。椿山荘に残されている庚申塔は碑文から寛文九年(1669)に作られたことが推定されます。この庚申塔は元々この地にあったものとされています。
羅漢石は京都市伏見区の石峰寺にあった五百羅漢の一部とされ、大正14年(1925)頃に椿山荘へ移されたとしています。なお、この羅漢石は画家・伊藤若冲氏の下絵により作られたもの。
ほたる沢
ほたる沢は作庭当初「竹裏渓」と呼ばれ孟宗竹林の裏側にある流れのあった場所でした。現在ではモミジなどの樹木が生い茂り、夏には蛍が舞うことから「ほたる沢」として案内されています。
こうしてみると、椿山荘の象徴ともいえる三重塔など、藤田男爵がもたらした影響の大きさを感じさせます。また、第二次世界大戦での東京大空襲による焼失、その後の藤田興業・藤田観光によって商業施設として復興・運営される中で大きく景観を変えてきました。一方で山縣公が見抜いた土地の持つ魅力は損なわれておらず、その骨格が維持されていることもこの庭園の特徴です。山縣公が愛で、藤田男爵が磨きあげた明治・東京を代表する庭園。世情が落ちついたら、ぜひ再訪したい庭園の一つです。