まだ知らぬ、日本を訪ねて

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旧安田庭園【人物編】

安田翁と後藤市長

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安田善次郎後藤新平」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より引用・編集)

 旧安田庭園が一般公開されるようになったのは、銀行王にして安田財閥創始者である安田善次郎氏の「陰徳を積む」志と、稀代の政策家・後藤新平伯爵の強固な意志決定によるものです。 

 陰徳陽報・安田翁の美学

 安田財閥創始者安田善次郎氏は天保九年(1838)富山の下級武士の家に生まれます。安政五年(1858)に奉公人として江戸に入り、後に独立。安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほ銀行)を中心とした金融財閥を一代で形成するに至ります。

 安田翁の重要な行動原理の一つに「陰徳陽報」があります。

陰徳陽報とは

「人知れず善行を積めば、必ず報われること」である。
安田善次郎翁が晩年多額の事業への助成を行っていたことはあまり知られていない。そこには「財が出来れば、それに応じて慈善的に寄付するのは、人として先天的に義務である。しかし、寄付を世間に知らせるのは、慈善の根本に反している」という思想が貫かれていた。

安田不動産株式会社『安田イズム 其の伍「陰徳陽報」』(2020.04.12 閲覧)

 安田翁の信念は、東京大学大講堂(通称:安田講堂)や後述する日比谷公会堂市政会館、そして旧安田庭園の寄付に繋がっていきます。

偉大なる政策家・後藤伯爵

 後藤新平伯爵は、安政四年(1857)に陸奥国胆沢郡鹽竈村に生まれました。当初は医学の道に進んでいましたが、内務省衛生局、臨時陸軍検疫部に所属して衛生行政に携わり、その後台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任するなど、行政手腕を発揮していきます。将来の総理候補として名前が挙がる中、大正9年(1920)に東京市長に就任しました。

後藤市長の壮大な構想

 安田善次郎氏が自らの本邸を東京市へ寄付することになったのは、後藤市長が描いていた「東京市政調査会」というシンクタンク設立の構想に共感したからです。

 後藤市長は東京市政を担当すると同時に、紐育にある市政調査会に深い関心をもち、こうした機関を東京にも持ちたいと考えた。即ち市政執行者とも議会とも関係なく市政を調査しこれを実施に移す運動を目的とする機構として、東京市政調査会なるものを、紐育市のそれにならって設立したいという熱情にもえ、その資金を安田翁に仰いで、快諾を得た、というのが事実である。後藤男の市長就任は大正九年十二月十八であるから、男と翁との間で行われた東京市政調査会設立に関しての数次の会見は、市長就任から翁の斃れる日に至る、僅々十ケ月くらいの間の事であった。安田翁は後藤市長の高邁な理想に共鳴し、当時としては驚くべき巨額である調査会設立金三百五十万円と本所安田本邸とを寄附することを決意したのである。

財団法人東京都公園協会(1989.11)『東京公園史話』187p-188p

 後藤市長はさらにその先の都市計画「東京市政要綱」(通称「八億円計画」)まで見据えていたと言われます。当時の国家予算は15億円程度といわれており、後に「大風呂敷」と揶揄される所以となります。

翁と後藤子爵

 翁と子爵後藤新平氏とは、わが東京の大都市計畫につき特に密接の干係があつた。

 はじめ後藤子の東京市長として就任するに當り、子は大都市計畫の頃來の抱負をもつてゐたので、之を行はん上に内閣首相原敬氏との間に、後藤子爵首唱の大調査機關は政府其設計に隨つて實現に任ずべしとの諒解を有し、一方全市會の希望に應じ市財政の措置につき善次郎翁と密に默契を結んでゐた。

(中略)

 斯くて翁は三百五十萬圓を出して後藤子の大都市計畫の第一歩を援けた。併し市政調査會は、單に大都市計畫についての羅針盤たるに過ぎぬのである。翁の希望するところは、之に依て大計畫の謬り無き方針を定め、軈て計畫の實行に入るの時機に於て之に要する後藤子案の所謂八億圓計畫を、其一手に引受けんが爲めであった。

 後藤子が其後八億圓計畫を發表して間も無く、翁は子を其邸に訪ひ、所謂八億圓計畫が子としては小さきに過ぎはせぬかといふた。而して之を十ヶ年間に辨ずるとせば年分八千萬圓にして足るを以て、他を煩はす事なく自分獨個の力を以て之を調達するに易々たるものである。敢て自分の家産を傾注するなどの程度のものでも無いと云つて失笑した。

(中略)

 翁は八億圓計畫につき、子と對談してゐる間にスツカリ胸算用をして仕舞つた。其れは翁の持論として、今日安田の信用を以て十年の間に八億圓を集めるのは容易である。

(一部新字体を使用)

坂井磊川(1925.09)『銀行王安田善次郎』p113~p122

 上記の引用文から、次のことがわかります。

  • 東京市・後藤市長はニューヨークにある市政調査会をモデルとした調査機関(シンクタンク・頭脳集団)を持ちたいと考えていた。
  • 後藤市長は安田翁に資金援助を相談した。
  • 安田翁は後藤市長の構想に共鳴し、調査会設立金350万円と安田家本邸を寄付することに承諾した。
  • さらに後藤市長は「東京市政要綱」(八億円計画)についても安田翁に相談し、資金集めの目算を立てた。

 しかし、この壮大な都市計画は安田翁の暗殺という悲劇的な事件によって半ば立ち消えとなったのです。

 然るに其後、翁は子との内約に基く一部の準備に着手したのみで彼の不慮の災禍に遭ふた。子は淺野氏と共に驚絶した一人であつた。訃報一と度子の耳に入るや、子は一言『仕舞つた』と口走つて色を失つたといふことである。

(一部新字体を使用)

坂井磊川(1925.09)『銀行王安田善次郎』p122

 こうして、「東京市政要綱」の実現に目途が立たない中、安田家本邸と市政調査会設立金の寄付のみが残ったのです。

寄付をめぐる騒動

 しかし、この安田家本邸の東京市への寄付については、後に政治問題を引き起こすことになります。大正11年(1922)に設立された財団法人東京市政調査会の設立者が、東京市長へ寄付したことが事の発端です。一見、なんら問題は無さそうな話ですが、東京市政調査会の設立者と東京市長は共に後藤新平氏であったため、騒動が巻き起こります。

  この寄附受領議案は果して市会の大問題となった。

(中略)

  1. 東京市政調査会設立者理事後藤男爵が市長という別の資格の公職にある東京市長に寄附を願出でたことに法律的錯綜の事実がある。
  2. 寄附者の掲げた条件の第四にある、東京市政調査会が安田家の寄附金(三百五十万円)を以て会館を建てること自体、その建設予定地たる日比谷公園の機能を破壊する虞れがあるのではないか?

問題はこの二点にしぼられた。

財団法人東京都公園協会(1989.11)『東京公園史話』186p

 この騒動は、日比谷公園の土地利用の関係から内務省まで絡んできます。

東京市政調査会の会館を日比谷公園内に建設することについて、都市計画的見地より公園の姿勢を監視していた内務省が極めて強硬な態度に出て、東京府内務部長大海原重義をして東京市長に対して会館建設中止の申入れを出していたのである。

(中略)

内務省市政会館は中止命令は正当なものである。何故ならば、日比谷公園は、これを市民に公開する公園とするとの条件のもとに、大蔵省は無償で東京市に貸付したものだからである。

財団法人東京都公園協会(1989.11)『東京公園史話』187p

 上記の引用文から、次のことがわかります。

  • 寄付する者と受けとる者が同じ人物であったため、東京市会で問題となった。
  • 日比谷公園の土地利用についても市会で問題となった。
  • 内務省日比谷公園内に建設する市政会館の建設に反対していた。
  • 反対の理由は日比谷公園は「市民に公開する公園とする」との条件で、大蔵省が無償で東京市へ貸し付けていたため。

 東京市会や内務省の反対もある中で、後藤市長はこの政策を断行します。調査機関の本拠地となる市政会館東京市初の市民ホールとなる公会堂の建設、そして安田家本邸が公園地となり江東地区にも公会堂が建設されます。これが東京にとって未来への投資になると信じたからに他なりません。

 この騒動の最中、後藤市長は東京市会で次のような答弁をしています。

「安田は、実をいうと諸君らの如き東京市会を信用していない。従って東京市長という公職についても同様である。だから安田は後藤の日頃考えている紐育市の市政調査会と同様な調査機関をこの東京につくるということに大きな「インテレスト」をもち、後藤個人に対して巨額の金品と土地建物を寄附したのである。諸君が兎や角いう必要はない。更に真実を聞きたいというなら、私はいつでもどこでも応答しよう。」

財団法人東京都公園協会(1989.11)『東京公園史話』188p 

 現代の政治家にはない豪胆さを垣間見る事ができます。しかし、一方で安田翁の後ろ盾を無くしたために、「東京市政要綱」(八億円計画)は断念せざるを得ませんでした。後藤市長は失意の中、大正12年(1923)4月、市長職を辞任します。

騒動の後

 市長辞職後、後藤伯は関東大震災発生直後に第二次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁として帝都復興に携わっていきます。この時、「帝都復興計画」は「東京市政要綱」(八億円計画)をベースにしたものといわれ、規模は縮小されたとはいえ、現在の東京の骨格を形作るに至ります。

 安田翁は生前、銀行経営の手腕から「ケチ」であるとの評判が立つなど、悪評が多くありました。しかし、現在は「陰徳の人」として尊敬を集めています。

 安田家本邸は関東大震災で建築物は焼失、庭園も大きな被害を受けました。震災後に東京市による復旧工事の後、昭和2年(1927)に一般公開されました。

 旧安田庭園に隣接した形で建設された両国公会堂は、老朽化のため近年取り壊され、現在は新しく刀剣博物館が建設されました。

 東京市政調査会は、現在名称を「後藤・安田記念京都市研究所」に改め、現在でも活動を行っています。

 安田翁と後藤伯が夢見た帝都・東京の改造計画。八億円計画やその後の帝都復興計画がそのまま実現していたら、もっと住みやすい東京に変貌していたかもしれません。

  続きの記事は「震災編」、前の記事は「歴史編②」となります。

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参考文献