まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

旧安田庭園【歴史編②】

文献でみる維新後の歴史

 当ブログ「旧安田庭園 【歴史編①】」以後の歴史もみていきます。

 【歴史編①】でも紹介した亀田氏の論文には、次のような記載があります。

明治になって旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年(1891)7月安田財閥創始者安田善次郎(1838~1921)の所有となった。

(中略)

大正11年(1922)3月20日安田善次郎の没後、その遺志により庭園は東京市に寄付され(4,521坪)たが、翌年大正12年(1923)9月1日の関東大震災により大きな被害を被った。

亀田駿一(1997)「文化財庭園 名勝 旧安田庭園について」『都市公園

 また、安田不動産のウェブサイトには、次のようなページがあります。

本所横網の田安候邸を購入したのは明治12(1879)年12月のことだ。(中略)。田安邸に肥前平戸藩主松浦候の隠居所、上総一の宮藩主加納候邸を含めた南北約234m、東西はその半分あまりの土地には、それぞれ茶人好みの庭園があった。翁は、深秀園と命名した敷地に、和風家屋懐徳館、洋館成務館を建て、日本橋小網町の本邸に対して、各界の名士らを招く別邸とした。さらに明治24(1891)年には隣接する屋敷を旧岡山藩主池田章政候から購入し、小網町から住まいを移す。以後、本邸となった場所が現在の旧安田庭園、深秀園の場所に建つのが同愛記念病院安田学園である

安田不動産株式会社『安田めぐり 其の七 引き継がれた善次郎翁の「社会への貢献」墨田区横網』(2020.04.07 閲覧)

 この2文献から、次のような事がわかります。

地図でみる変遷

 文献に続いて、次は大日本帝国陸軍が作成に関わった実測図を基に旧安田庭園の変遷を確認していきます。

  1. 明治17年(1884)測図「東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍」
  2. 明治42年(1909)測図「日本橋
  3. 大正5年(1917)修正測図「日本橋
  4. 大正10年(1921)修正測図・同14年(1925)部分修正「日本橋
  5. 昭和12年(1937)修正測図「日本橋
1.明治17年(1884)測量「東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍」

 最初の地図は、参謀本部陸軍部測量局が明治17年(1884)に測量した『五千分一東京図測量原図』です。

f:id:m00611108:20200405124736j:plain

明治17年(1884)測量「東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍」より拡大抜粋(国際日本文化研究センター公開データベース)

 旧安田庭園の土地は明治17年時点で本庄松平家から池田侯爵家(旧備前池田家)に所有者が変わっていることがわかります。また、当地に隣接していた徳川将軍家の御竹蔵は帝国陸軍倉庫へと変わっています。

 恐らく池田侯爵家時代に整備されたと推定される直線の護岸など、現在までに残る旧安田庭園の原形を見ることができます。一方で、中島が2島あること、現在まで残る中島と比べ規模が大きいなどの違いが見られます。

2.明治42年(1909)測図「日本橋

 次の地図は大日本帝国陸地測量部が明治42年に測量した『一万分一東京近傍地形図』の「日本橋」です。

f:id:m00611108:20200412003526j:plain

明治42年(1909)測図「日本橋」より拡大抜粋

 この時期には当地はすでに安田家の所有となっています。また、隣接していた帝国陸軍倉庫は、この時代には「被服本廠」であったことが確認できます。

 庭園については中島が2島から1島へ変更されていることが確認できます。

3.大正5年(1916)修正測図「日本橋

 次の地図は陸地測量部が大正5年に修正測図した『一万分一東京近傍地形図』の「日本橋」です。

f:id:m00611108:20200407170939j:plain

大正5年(1916)修正測図「日本橋」より拡大抜粋(後藤・安田記念京都市研究所市政専門図書館デジタルアーカイブスより)

 地図上でもはっきりと「安田邸」と記載されるようになっています。

4.大正10年(1921)修正測図・同14年(1925)部分修正「日本橋

 次の地図は大正10年(1921)に第二回修正測図を実施、大正14年(1925)に部分修正した『一万分一東京近傍地形図』です。

f:id:m00611108:20200407185114j:plain

大正10年(1921)第二回修正測図・同14年(1925)部分修正「日本橋」より拡大抜粋(後藤・安田記念京都市研究所市政専門図書館デジタルアーカイブスより)

 隣接していた帝国陸軍被服本廠は大正8年(1919)に赤羽台に移転し、更地化されました。後に「陸軍被服廠跡」と呼ばれる同地は、関東大震災において火災旋風の襲来に遭い、避難していた約3万8,000人が亡くなったと推定されています。

 従来の安田家本邸は、大正11年に東京都へ寄付され、北側に隣接する別邸を安田家本邸としていました。関東大震災ではその安田家本邸が火災旋風に襲われ、安田翁四男一家が全員焼死、三男一家は辛くも隅田川に逃げ延びることができました。

 旧安田家本邸は一般公開へ向けて工事中でしたが、関東大震災で壊滅的な打撃を被ります。震災後、東京市により復旧工事が行われ、昭和2年(1927)に「旧安田庭園」として開園されました。

3.昭和12年(1937)修正測図「日本橋

  最後に昭和12年(1937)に測量された地図です。

f:id:m00611108:20200411231444j:plain

昭和5年(1930)測図・同12年(1937)修正測図「日本橋

  関東大震災から14年後の地図になります。前述の通り、大正11年(1922)に安田家による社会事業の一環として、従来の安田家本邸を東京市へ寄付しています。大正15(1926)には関東大震災で焼失した旧安田家本邸の跡地に「本所公会堂(後の両国公会堂)」が安田家の寄付金により建設されています。また、安田家本邸があった北側の土地は「同愛病院(同愛記念病院)」「保善学校(現・安田学園」」の設置に提供されています。

 庭園については、中島と繋がっていたと推定される橋と出島が消失する一方、池田侯爵家時代に存在したもう一つの中島の位置に出島が描かれています。少なくとも関東大震災の被害とその後の復旧工事により池の形にも影響を与えたものとみられます。

 その後、第二次世界大戦、高度成長期の水質汚濁の苦難を乗り越え、平成8年(1996)に東京都の名勝に指定されました。旧安田庭園はこれからも地元民の憩いの場として大切に保存されていくことを願います。

 続きの記事は「人物編」、前の記事は「歴史編①」となります。

zuito.hatenablog.com

zuito.hatenablog.com

参考文献