まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

旧安田庭園【震災編】

関東大震災と日本庭園

 今まで旧安田庭園の歴史について紹介していきました。ここで、一般公開直前に発生した関東大震災での歴史を振り返ります。

 関東大震災では、樹木と池泉がある日本庭園で多くの人々を火災から救うことができました。旧芝離宮庭園や深川の清澄庭園浅草公園(現在の浅草寺や伝法院付近)等がその実例です。

第二節 震災に於ける東京及橫濱公園の効果被害

(前略)

 而して此處に注目すべきは、公園、廣場、庭園、河川等が防火壁となつて、猛火を防いだ事である。公園廣場等の防火壁帶が無ければ恐らくより以上の焼土と化したのであらう。卽ち全市六割の區域が焼失を免れたのは、一には公園、廣場等の効果が預かつて力あつたと謂ふべきである。

 之を焼失區域境界線に依り調査すると、西南部は、芝區の濱離宮、舊芝離宮庭園より古川に沿ひ、芝公園等の一帶を境とし、之より北へ愛宕山公園虎の門公園、東伏見宮家庭園、日比谷公園、宮城前廣場、内濠に沿ひ牛ヶ淵公園、富士見町公園等を一帶として防火壁を形成し、又、麴町公園、閑院宮家庭園、有栖川宮家庭園、鍋島候庭の爲め永田町附近の類焼を免かれ、尚小石川區方面は外濠及後樂園等で防ぎ、本郷區、下谷方面では湯島公園、岩崎家庭園及上野公園を一連帶として防火の効果を現はし、實に大火災に對し公園及庭園の植樹帶が防火壁となつた事實を物語るものである。

 尚、局部的に効果のあつたのは、淺草公園の四圍が大火に包まれたのに、獨り傳法院、淺草寺、觀音堂、仁王門(特別保護建築物)の類焼を免れたのは、淺草公園及傳法院に於ける庭園の植樹帶が防火壁となつたがためで、淺草區向柳原町に於ける松浦伯邸の庭園蓬萊園、又深川區淸澄町に於ける岩崎家の淸澄庭園等が共に焼失を免れたのは又此植樹帶の價値を示したものである。

(一部新字体を使用)

復興事務局(1931)『帝都復興事業誌:公園篇』p6~7

 旧安田庭園でも同じことが言えるのではないかと考えていたのですが、壊滅的な被害を受けた以外はあまり言及されていません。ネット上ではむしろ多くの人々が亡くなったとの記述もあります。

 そこで、自らが調べられる範囲内で実情はどうであったか確認してみようと思います。

旧安田庭園の立地

 まず、旧安田庭園の立地について確認していきます。当時、旧安田庭園は前年の大正11年(1922)に東京市へ寄付されたばかりでした。そのため、当時は「旧安田庭園」とは呼ばれず、「旧安田本邸」「旧安田邸」と呼称されていました。

 当時安田家の本邸としていたのは、北側の敷地であり、当時は「安田邸」「安田本邸」と呼ばれています。両安田邸の東隣に「陸軍被服廠跡」と呼ばれる空き地が広がっていました。

 南隣には総武本線の終着駅である「省線両国橋駅」(現在のJR両国駅)があります。

 当記事では混乱を避けるため、便宜上、東京市へ寄付された旧安田家本邸を「旧安田庭園」、震災当時の安田家の本邸を「安田家本邸」と呼称するようにします。但し、文献の引用箇所はそのまま記載します。 

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大正5年(1916)修正測図「日本橋」より拡大抜粋・編集(後藤・安田記念京都市研究所市政専門図書館デジタルアーカイブスより)

本所区横網町での火災旋風

 関東大震災において、特に多かったのが火災による焼死です。竹内六藏氏が震災予防調査会の報告書の中に、東京各区町村死因別の一覧をまとめています。そのデータを基に作成したのが、下記の円グラフです。

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 この円グラフを見ても分かる通り、関東大震災における東京府の犠牲者の死因は87%が焼死であることが分かります。特に旧安田庭園の東隣に位置する被服厰跡では、約38,000名の方が焼死しました。これは東京府の犠牲者数の6割以上となります。本所区の被災者の多くが被服廠跡の空き地に避難しており、そこに火災旋風が数度にわたり襲来、大多数が焼死しました。

 寺田寅彦博士は『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』において、次のように述べています。

 (一)緒言

 大正十二年九月一日ノ震災ニ伴フテ起ツタ東京市ノ火災ハ、此レニヨツテ各所ニ誘發サレタ旋風ノ爲に、一層其ノ災害ヲ大キクシタヤウニ見エル、此現象ノ眞相ヲ調査シテ記錄ヲ殘シテ置クコトハ、震災豫防調査會ノ仕事トシテモ强チ無用ノ業デハナイト思フノデアル。

(一部新字体を使用)

寺田寅彦(1925)「大正十二年九月一日二日ノ旋風ニ就テ」『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』p185

 有名な警句「天災は忘れた頃にやってくる」でも知られる寺田博士の悲愴ともいえる決意が伺えます。

旧安田庭園での犠牲者の数

 次に、旧安田庭園・安田家本邸内での犠牲者数を見ていきます。震災予防調査会がまとめた調査報告書に、関東大震災での場所別犠牲者数が収録されています。このデータを基に、本所区(現・墨田区)において死者が50人以上発生した場所の一覧表を作成しました。

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 表1において黄色く塗りつぶした場所は旧安田庭園の住所となります。このデータに基づけば、旧安田庭園内では82名が焼死していることが分かります。

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東京逓信局『東京市本所区』(関東大震災死者50名以上発生地点を円で示す)

 当時の本所区の地図に表1の死者数をを円の面積にして重ね合わせると、上図の様になります。このようにしてみると、被服廠跡の悲劇が一層際立ちます。
 但し、報告書にも記載されていますが、被服厰跡の死者数は他箇所で死亡した遺体も集められた関係から、6,000人程度多めに集計されています。

震災直後の旧安田庭園の様子

中央気象台編集『關東大震災調査報告(氣象篇)』の記述

 中央気象台(後の気象庁)が震災後にまとめた調査報告書に、安田家本邸・旧安田庭園の様子が収録されています。

安田邸内の慘狀

 安田邸は被服厰跡の西隣にして(第八圖)大旋風圏内にあり。其旋風猛火に襲はれたる狀況は當時同邸に居りたる鈴木倉吉氏の談話にて其概略を知るを得たり。鈴木氏は柔道水練等の達人にして安田舊主人の保護役として永く同家に仕へたり。其談話の概略は左の如し。

 本館は濃尾震災の際安田舊主人が西洋人の建築技師を震災地に伴ひ視察の結果充分なる耐震建築をしたものである。故に今度の大地震に對しても全然安全であつた。又邸内樹木が多いから且其東隣の被服厰跡は空地で南及北隣も割合に安全なる邸宅であるから火事に對しても餘程是は安全と思ひ避難者を収容し、焚き出しをなし主人の安田善雄氏が總てを指揮した。避難者は自動車、荷車等を引き込み來り、本館前等に充滿し、約三百人程も居つたらう。此中助つたのは極僅かである。(中略)安田家の人々を探し廻はつたが何しろ死人で一杯の爲に見付からない。(中略)主人は散々探した末翌一日朝兩國橋の所で出入りの親方が見付けたが病院で死んだ。其他家族殘らず死亡した。

 舊安田本邸(東京市に寄附せられたるもの)中には大池あり(第九圖k)此池中に入りて助かりし人多数あり

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第八圖 被服廠附近地圖(『關東大震災調査報告(気象篇)』より引用)

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第九圖 k 舊安田邸庭樹の焼失著し、此池にて多人數助かる(『關東大震災調査報告(気象篇)』より引用)

 (注:一部新字体を使用)

中央気象台(1924)『關東大震災調査報告(氣象篇)』p26~28

  この報告書では、次のことが分かります。

  • 安田家本邸では約300人程度の避難者を収容した。
  • 安田家本邸では避難者をはじめ、安田家関係者も含む多数の人が焼死した。
  • 旧安田庭園では大きな池があったため、助かった者が多くいた。

 ここで、一つの疑問が生じます。竹内六藏氏が『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』にて場所別の犠牲者数をまとめていますが、そこには「横網町二ノ七安田邸内」と記載されています。当時「横網町2-7」は旧安田庭園のことを指し、安田家本邸は「横網町2-9・10」となります。詳細は不明ですが、恐らく、竹内氏が「旧安田庭園」と「安田家本邸」を混同してしまったのではないかと推定されます。

寺田寅彦博士の実地調査

 寺田寅彦博士が旧安田庭園付近を実地調査した結果を『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』にまとめています。

(イ)本所區横網町安田邸内ノ旋風。

 著者ハ大正十二年九月廿六日、廿七日兩日、本所區横網町安田邸内ニ於ケル災害ノ跡ヲ見テ歩イタ。邸内庭園ニアル多數ノ樹木ガ或ハ根コギニサレ、或ハ折レテ倒レテ居ル、其等ヤ邸ノ周圍ノ電柱等ノ倒レタ方向ヲ概略ノ見取圖ニ作ツタモノヲ茲ニ揭ゲル(第二圖)。此圖ノ示ス如ク倒レタ方向ハ極メテ不規則デアル。所ニヨツテハ旋轉ノ狀況ヲ歸納スル事ハ思ノ外困難デアル。恐ラク此處ノ旋風ハ唯一ツノモノガ唯一囘通過シタノデハナク數多ノモノガ相次イデ襲ツタモノデアラウト想像サレル。

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第二圖(『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』より引用)

 倒レテ居ナイ樹木ノ枝ニ焼ケテ赤ク鏽ビタトタン板ガ飛ンデ來テ卷キ付イテ居ルノガ、丁度手拭デモ絞ツテタゝキ付ケタヤウニ見エル。又色々ノ衣服ノ切レ端ヤ布片ガ高イ梢ニ卷キ付イテ居ルノガ如何ニモ念入リニ執念深ク卷キ付ケラレテ居ル。邸内番人ノ話ニヨルト、此等ノ樹ノ枝ニ自轉車ナドモ懸ツテ居タトイフ事デアル。

 安田邸ガ南北二ヶ所ニ分レテ居ル、其ノ南ノ方ノ邸ノ植込ノ八ッ手ノ中ニ小イ荷車ガ一臺車輪ヲ碎カレタノガ見ラレタ。此レハ周圍ノ狀況カラ判斷シテ明ニ上方カラ落下シタ儘ノモノデアツタ。

 又邸内ノ人ノ話ニヨルト、當時池畔ノ小亭ニ避難シテ居タラ、急ニ南ノ方カラ烈シイ音響ガ聞コエルト思フ間モナク、强風ガ起ツテ小亭ノ屋根ハ池中ニ吹キ落サレタトイフ。實際著者ノ見タ時モ、其屋根ガ池ノ中ニ浮ンデ居タ。屋根ノ飛ンダ方向ハ大體ニ南デアル。樹幹ノ捻ヂ切レタ方向カラ、風ノ旋轉ノ方向ヲ判定スル事ハ、場合ニヨツテハ誤謬ニ陷ル恐ガアアル。枝ニ卷キ付イタ布片ニツイテモ同樣デアル。

(中略)

 第三圖ハ、理學士秋山峯三郎氏ガ吾々ノ爲メニ撮影サレタ双眼寫眞デアル。當時ノ慘狀ヲ可也現實ニ現ハスモノデアル。此寫眞ニ寫ツテ居ル地面ノ其處彼處ニハ、死骸ヲ焼却シタ灰ヤ骨片ガ散ラバリ、異臭ヲ突イテ居タコトヲ想像シナガラ、此寫眞ヲ見レバ、更ニ一層現實的ニ訴ヘテ來ルモノガアルダラウ。

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第三圖(『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』より引用)

(原文に段落の追加、一部新字体を使用)

寺田寅彦(1925)「大正十二年九月一日二日ノ旋風ニ就テ」『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』p194~p195

  寺田博士の実地調査では、次のことが分かります。

  • 火災旋風が複数回にわたって安田家本邸、旧安田庭園を襲ったと推定される。
  • 写真に写されている地面のそこかしこに遺体を焼却した灰や骨片が散らばっており、異臭がしていた。

 少なくとも写真bは、旧安田庭園の太鼓橋、枯滝付近を撮影したものと推定されます。

相生警察署の報告内容

 本所相生警察署(現在の本所警察署)が震災直後にまとめた報告内容が『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』に転載されています。基本的には被服廠跡の惨状を中心にまとめられていますが、一部安田家本邸についても言及があります。

四 被服廠跡廣場ノ慘狀

 被害區域内デ最モ多數ノ死者ヲ出シ凄慘ヲ極メタ本所區被服廠跡廣場ニ於ケル當時ノ狀況ヲ記シタ本所區相生警察署ノ報告ハ當時ノ慘狀ヲ追想スルニ足リ參考トナルベキヲ思ヒ、茲ニ轉載スルコトゝシタ。

(中略)

(九)屍體

屍體ハ被服廠跡及其ノ附近ニ於テ參萬八千拾五個、綠町附近其他ニ於テ六千參百個即チ管内屍體總數四萬四千参百拾五個ヲ算シタリ、内男貳千七百貳拾個、女貳千參百壹個、黑焦トナリテ性別不明ナルモノ參萬九千貳百九拾四個ナリ。

(一〇)餘錄

九月一日被服廠附近ノ旋風が如何に猛烈ナリシカハ、安田邸内避難者ガ庭内ヲ逸走中猛焰ヲ浴ビテ其ノ儘「ミーラ」トナリ居ルヲ見受ケタル等其ノ一證ナリ。

(後略)

 大正十二年九月十一日 東京本所相生警察署

 

(一部新字体を使用)

竹内六藏(1925)「大正十二年九月大震火災ニ因ル死傷者調査報告」『震災豫防調査會:第百號(戌)』

 相生警察署の報告から、次のことが分かります。

  • 被服本廠付近で発見された遺体は38,050体、緑町(現在の墨田区緑・亀沢)付近で発見された遺体は6,300体を数えた。
  • 「安田邸内」に避難していた者が火災旋風に巻き込まれミイラ化した状態で発見されていることが記録されている。
3つの報告書のまとめ

 中央気象台、震災予防調査会、相生警察署の報告から、以下の点が分かってきます。

  • 安田家本邸では避難者をはじめ、安田家関係者を含む多数の人が焼死した。
  • 旧安田庭園では大きな池があったため、助かった者が多くいた。
  • 一方、寺田博士の実地調査では、安田家本邸、旧安田庭園ともに地面に遺体を焼却した灰や骨片が散らばっていると記述している。
  • 火災旋風は安田家本邸、旧安田庭園両方に複数回襲来していることが、寺田博士の実地調査で推定できる。
  • 残された写真から、旧安田庭園の樹木は悉く焼失し、中には吹き飛ばされたものもある。
  • 「安田邸内」に避難していた者が火災旋風に巻き込まれミイラ化した状態で発見されていることが記録されている。

書籍の中の記述

『夢の都:大震大火災遭難實記』著者 定村氏の記述

 定村青萍氏が記した『夢の都:大震大火災遭難實記』に安田邸の記述があります。

  2、本所區横網安田邸跡

 天下の富豪と聞えた安田一家の宏壯な邸宅も見る影もない焼原となつてゐる。此所も火災起ると聞くや、屈强の避難場所として人々の集る所となつたので、安田家でも數千の避難者を庭園に入れたそうである。此處の主人公安田善雄氏は家屋倒壊の際下敷きとなり、一家族は全滅の厄にあつたのである。

(中略)

 同邸内には、多數の屍があつた、又庭園の池の中には死人が重なりあつてゐる、かゝる人達の苦痛を思へば思へば、思はず全身に粟が生じてくる何と云ふ慘狀であるか。

(注:一部新字体を使用)

定村青萍(1923)『夢の都 : 大震大火災遭難実記』p44~p45

 この書籍からは、次のことが記されています。

  • 安田家で数千の避難者を庭園に入れた。
  • 安田家本邸には多数の死体があった。また、庭園の池の中には死人が重なり合っていた。

 ただし、定村氏自身は浅草から千住、綾瀬、西新井大師を経由して千葉方面へ避難したため、本所地区の惨状を直接見ているわけではありません。また、他の報告書や証言者を考慮するに、「家屋倒壊」はしておらず、「安田家でも数千の避難者を庭園に入れた」はさすがに誇張した伝聞情報と考えられます。

『銀行王安田善次郎』著者 坂井氏の記述

 坂井磊川氏による著作『銀行王安田善次郎』には安田家関係者の被害状況の記述があります。

 本所被服廠跡に於ける市民三萬の禍難は、未だ世人の記憶に新たなる處であるが、同じ横網町に其邸宅を構へたる安田家は、是又惨害の中心たるを免れ得なかつた。當時同邸内には、現主善次郎氏をはじめ、其實弟善五郎(故翁の三男)同善雄(同四男)の三氏が、其家族と共に在住した。而して此中、善次郎氏一家(大磯別邸に在りて)と善五郎氏は幸に難を免れたが、善雄氏は其妻女文子氏及び三人の愛兒と共に不運の焼死を遂げた。猶ほ同邸に仕へ居たる自動車運轉手並に家族及び男僕女卑五十名ばかりは悉く焼死の難に遭ふた。

(注:一部新字体を使用)

坂井磊川(1925)『銀行王安田善次郎』p169

 この書籍は、次のことが記されています。

  • 安田家に仕える運転手、使用人等、安田家関係者50名ほどが焼死した。

 坂井氏は安田翁の伝記を書くにあたり、周囲各所で調査をしているため、比較的信頼性はあると思われます。

書籍の記述のまとめ

 書籍の記述については、誇張表現が入っている可能性があるため、一概に事実とは断定できませんが、当時の雰囲気は伝わると思います。その中で、比較的事実に近いように思えるのは、次の点です。

  • 安田家関係者50名ほどが焼死した。

生存者の証言

 次に報告書に記載されている証言を確認していきます。

靑木滿喜子氏は家族八名と共に被服厰跡中程の石置場に居りしが旋風に吹かれて家族と分離し途中數回吹き倒されながら此池(筆者追記:旧安田庭園の池)の中に吹き落とされて助かりしと云ふ(本人談)

中央気象台(1924)『關東大震災調査報告(氣象篇)』p29

石原町壽美屋菓子店方皆川三郎氏談

被服厰中央部西側安田邸の石垣の近くに居つた、(中略)又同家の靑年店員野口辰雄氏(二十歳)は始めは矢張り被服厰跡で其附近に居つた。捲き上げられ氣の付いた時には安田邸内に居つた、つまり石垣と塀を越えたのである(後略)

中央気象台(1924)『關東大震災調査報告(氣象篇)』p29

妻子三人と忠實なる五人の部下職工を被服廠跡に焼死せしめ無數の火傷して助かりし氣丈の人

洋服仕立工場主 針山 茂氏談

(前略)

安田邸廣場に齒も肉もくつゝいて居つた、旋風猛火人を叩き付けし光景である。

中央気象台(1924)『關東大震災調査報告(氣象篇)』p141~p143

  また、亀田氏による論文「文化財庭園 名勝 旧安田庭園」には、芥川龍之介氏が寄稿した随筆の一部に旧安田庭園に関する記述が紹介されています。

文学者と画家による震災後の東京見聞記『大東京繁昌記』に寄稿した芥川龍之介は、随筆「本所両国」(龍之介死去の約3カ月前の昭和2年4月頃実地踏査したと思われる)の中で「妻の親戚が火の粉を防ぐために戸板をかざして立っていたのを旋風のために巻き上げられ、安田家の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返した。(後略)」

亀田駿一(1997)「文化財庭園 名勝 旧安田庭園について」『都市公園

 これらの証言に共通することは、次の点です。

まとめ

 報告書や書籍、生存者の証言等を総合すると、次のことが言えます。

  • 火災旋風は複数回にわたり安田家本邸、旧安田庭園、陸軍被服廠跡付近を襲来し、被服廠跡では約38,000人近くが焼死した。
  • 旧安田庭園は壊滅的な被害を受け、少なからぬ人が死傷したと推定できるが、一方で多くの人命を救った。
  • 安田家本邸では多くの犠牲者が発生した。竹内氏の調査報告では87人、坂井氏は書籍で安田家関係者が約50人、証言では避難者300人近い方が犠牲となっている。
  • 生存者の証言から、旧安田庭園で多くの人命が救えたのは、庭園内に遭った池泉で火災から身を守れたと推定される。

 残念ながら旧安田庭園では、清澄庭園等とは違い、具体的な生存者数の記録が無いため何人の方が救われたかは不明です。しかし、証言を参考にする限り、多くの人命を救ったと考えられます。

 一方、火災旋風については未だ研究途上にあり、遭遇した際の明確な対処法は存在していません。寺田寅彦博士は『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』において、自身の報告の結びとして次のような記述を残しています。

(八)結尾

 以上調査ノ結果トシテ結局何等斷定的ノ結論ニ到着スル事ヲ得ナカツタノハ遺憾デアルガ、此レハ問題ノ性質上カラ、寧ロ止ムヲ得ナイ事デアルト思フ。唯今囘ノ調査ニヨツテ暗示サレタ各種ノ可能性ヲ考究シテ將ニ備ヘル端緒トモナラバ望外ノ幸デアル。

(一部新字体を使用)

寺田寅彦(1925)「大正十二年九月一日二日ノ旋風ニ就テ」『震災豫防調査會報告:第百號(戌)』p227

 寺田博士の無念が今に伝わってきます。発生メカニズムが類似している元禄地震(1703)と関東大震災(1923)は220年の期間が開いています。関東大震災からまもなく100年。次の100年で、震災に強い東京へ進化させなければなりません。それは関東大震災尊い犠牲の上に残された教訓を活かせるかにかかっています。

 次の記事は「探訪編」、前の記事は「人物編」となります。

zuito.hatenablog.com

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参考文献

  • 復興事務局(1931)『帝都復興事業誌:公園篇』
  • 震災予防調査会(1925.03.31)『震災豫防調査會報告:第百号(戌)』
  • 中央氣象臺(1924)『關東大震災調査報告(氣象篇)』
  • 定村青萍(1923)『夢の都 : 大震大火災遭難実記』
  • 坂井磊川(1925)『銀行王安田善次郎
  • 亀田駿一(1997)「文化財庭園 名勝 旧安田庭園について」『都市公園