まだ知らぬ、日本を訪ねて

趣味の日本庭園や近代建築の紹介ブログです。

<建築紹介>聖パウロカトリック教会【写真集】

パウロカトリック教会  撮影:2023.07.02

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<建築紹介>しなの鉄道 軽井沢駅【写真集】

しなの鉄道 軽井沢駅  撮影:2023.07.01

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*1:『現地説明板 旧軽井沢駅舎記念館の歴史』(2023.07.01参照)

*2:共同通信(2017.10.27)「旧軽井沢駅舎の改札口復活 明治の面影残す記念館に」『日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22777110X21C17A0CC0000/(2023.10.20 参照)

*3:経済産業省『平成19年度「近代化産業遺産群33」』https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/creative/kindaikasangyoisan/pdf/isangun.pdf(2023.10.20 参照)

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横網町公園【人物編】〜本所相生警察署〜

本所相生署の一番長い日

横網町公園 東京都復興記念館 警察手帳  撮影:2023.08.23

 東京都復興記念館に展示されている警察手帳。陸軍被服廠跡で発見された身元不明の焼死体にあったものです。この手帳により、焼死体は河本巡査部長であることが判明しました。

 関東大震災が発生した日、その始まりは、いつもと変わらない日常から始まっています。今回は震災時、本所相生警察署の動きを複数の文献から追うことで、関東大震災の過酷さを追体験しようと思います。

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横網町公園【震災編】

はじめに

 この記事を、100年前、我が国の有史史上最悪とも呼ばれる自然災害に直面した、全ての人々に捧げます。

 前回の記事は横網町公園の歴史について紹介していきました。ここからは、横網町公園の整備方針に深い関係がある関東大震災に焦点を当てたいと思います。

 今までの記事で述べた通り、横網町公園が整備される前、被服廠跡と呼ばれた更地に避難していた約38,000人もの人々が火災により亡くなっています。なぜこれほどまでに甚大な被害となってしまったのか、調べられる範囲で確認していきたいと思います。

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横網町公園【歴史編】

元々は倉庫の敷地だった横網町公園

横網町公園  撮影:2023.08.23

 現在、震災と戦災の犠牲者の慰霊を目的として整備された横網町公園。近世においては徳川将軍家の材木蔵、米蔵の敷地として活用され、近代からは帝国陸軍の被服本廠があった場所でした*1。今回は、江戸時代からの土地活用を古地図から確認すると共に、東京市へ払い下げされた後の計画の変遷を見ていきたいと思います。

*1:公益財団法人東京都慰霊協会(2020)『横網町公園今昔』pp4-6

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横網町公園【訪問編③】~東京都復興記念館~

横網町公園 東京都復興記念館  撮影:2020.09.19

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震災と戦災の資料を展示する資料館

 復興記念館は、震災記念堂建設にあたり収集した震災に関する資料を展示するために建設された展示施設です。元々は震災記念堂の一画に展示品を陳列する予定でしたが、展示品の点数が多くなり、とても間に合わないことから建設が決まりました。現在では関東大震災当時の状況を伝える絵画や写真、図表、犠牲者の遺品などが展示されています。後世の人々に伝えたいという、当時の人々の悲痛な思いが伝わってきます。

*1:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp204

*2:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』pp204

*3:社団法人日本建築学会(1997)『東京都復興記念館の保存に関する要望書』https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/970325.htm(2023.08.27 参照)

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横網町公園【訪問編②】~鐘楼~

横網町公園 鐘楼  撮影:2023.08.23

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日華友好の象徴として

 横網町公園の正門左側付近に幽冥鐘とそれを吊るための鐘楼が設置されています。この幽冥鐘は、関東大震災の一報を聞いた中国仏教界が各地で法要を開催した後、10万人ともされる犠牲者を供養するために鋳造し、日本仏教連合会に寄贈した弔霊鐘です。日華友好の象徴といえる幽冥鐘と鐘楼は、現在も静かに横網町公園に鎮座しています。

*1:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p169

*2:東京震災記念事業協会清算事務所(1932)『被服廠跡』p168

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